「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三。
油売りから美濃の戦国大名に上り詰めたと言われ、下克上を代表する人物として北条早雲などと並び有名です。
斎藤道三は早くから織田信長の才能を見抜き、織田家と誼を通じるために自分の娘を織田信長の嫁に出すのですが、この時、信長に嫁いだのが濃姫(帰蝶)です。
濃姫(帰蝶)は明智光秀とはいとこの同士。
そのため幼い頃は光秀と恋仲だったと言われることもありますが、果たしてホントのところはどうなのでしょうか?
今回は濃姫について詳しく掘り下げていくので参考にしてください。
濃姫(帰蝶)はどんな経緯で信長と結婚するにことになったの?
出身国:美濃国(岐阜県南部)
生没年:1535年~???
【濃姫を簡単にまとめると】
- 斎藤道三の娘。政略結婚で織田信長の正室となる
- 道三からもしもの時のためにと短剣を授かって嫁入りする
- 父の危機を知り、信長の妻でありながら道三に密告する
- 本能寺の変で亡くなったとも言われるが詳細は不明。
- 信長の妻でありながら生涯のほとんどが謎のまま
斎藤道三は美濃の国を手に入れてから織田信長の父親・信秀と争ってきました。
信秀が道三の居城・稲葉山城を攻めた時には織田軍を完膚なきまでにたたきつぶしたこともあります。
織田信長と濃姫の結婚は、まさに典型的な政略結婚でした。
信長が初陣を飾った16歳のころ、信長の父・信秀はまさに四方八方に敵を抱えていました。
天文16年、美濃攻めを行い約5000人が討死する大敗北を期したことで、濃姫の父・斎藤道三への脅威を感じたていたのはもちろんのこと、尾張国上半国を治める織田伊勢守家(信長の反勢力)を牽制する必要もありました。
さらに、駿河・遠江・三河を手中に治める東の今川義元にも対応する必要があったのです。
しかし同じころ、斎藤道三も西美濃から攻めてくる尾張勢力に抵抗しながら、美濃国の主権奪還を狙う者達の対処もせねばならず、こちらは国内情勢にすら油断できない状況が続いていました。
そんな訳で信秀は今川義元に集中するため、道三は国内情勢を落ち着かせるために、濃姫と信長の政略結婚に踏み切ります。
道三は「うつけ者」と評判だった信長が正装をして自身の前に現れた時、その才覚を見抜き「我が子はうつけ殿(信長)の門前に馬をつなぐことになる」、つまり信長に降ることになるだろうと予言したと伝わります。
これは織田信長方の資料に書いてあることなので信憑性が疑われるところではあるのですが、道三が信長の事を高く評価していた事は事実。
実際に道三は信長に美濃を譲り渡すという書状を書き残しています。
その後、道三は親子関係が冷めきっていた実の息子・義龍に大軍勢で攻め寄せられます。
この時、信長は義父・道三を助けるため援軍を出しますが、間に合わず、道三は戦死したと伝わります。
斎藤道三から「もしもの時のため」短剣を授かる
濃姫には有名な逸話が二つあり、そのうちの一つがこの嫁ぎ際の父とのやり取りです。
奇行が多く「尾張の大うつけ(まぬけ)」とすら呼ばれていた若殿・信長。
そんな男のもとへ娘を嫁ぎにいかせなければならない道三は嫁ぎに出る濃姫に懐剣を授けました。
「婿どのがまことにうつけならば、これで討ち果たせ」
なんとも頑固で勇ましい父らしい見送りに、濃姫は
「わかりました。でももし信長殿がうつけでなければ、この刀で父上を刺すことになるやもしれませぬ」
と返します。
こちらもまさに戦国の姫君らしい、勇ましい心意気ですね。
女ながらに国を想い、生きた濃姫
以下は濃姫に関するもう一つの逸話です。
濃姫が信長に嫁いでしばらく経った頃、信長は夜な夜な出かけ、明け方頃戻るようになりました。
それを怪しく思った濃姫が問い詰めると、信長は
「美濃の重臣で織田家の内通者がいる。それが道三を殺したら狼煙が上がることになっているのだ」
と濃姫に告げます。
驚いた濃姫は隙を見て父に密書を送り、報せを受けた父・道三は信長と繋がっているとみられる家老の一人を斬ってしまいます。
しかしこれは信長の作戦。
濃姫を試し、さらには美濃国の内紛を狙っていたと言われているのです。
真実であればあまりに悲しいやり取りですが、これも含めて戦国の世を生きる夫婦の在り方だと、濃姫もまた覚悟を決めていたのかもしれません。
不明な部分が多い濃姫の生涯!明智光秀との関係は?
歴史の幕に隠された信長の妻・濃姫の生涯。
それを裏付ける資料はありませんが、信長との間に子供ができなかったというのが通説です。
また没年についても、若くして亡くなったという説や、信長と共に本能寺で死亡したという説、さらには関ヶ原後も存命で78歳に亡くなったという説まであり、どれも確証的なものではありません。
この時代、全国各地から注目を浴びた信長の妻でありながら、ここまで情報が少ない濃姫の生涯。
信長のことが詳しく記載されている「信長公記」にすらその存在が全く記されていないことから、もしかするとそこには、何かしらの信長の意図があったのかもしれませんね。
では、歴史ドラマで描かれる明智光秀と恋仲だったという設定は事実なのでしょうか?
残念ながら、光秀と濃姫が幼い頃に仲が良かったというのは創作です。
濃姫の母の父親は明智光秀の父親と兄弟です。
そのため濃姫と明智光秀は「いとこ」ということになります。
光秀が斎藤道三に仕えていた時に面識はあると思いますが、その時は主君の娘(姫)なので気軽に話せるような状況ではありません。
濃姫と光秀は「顔を合わせれば挨拶する程度の関係」だったのではないかというのが正直なところです。
濃姫は本能寺の変で亡くなった?謎に包まれた最期とは?
濃姫(帰蝶)のイメージとしては、斎藤道三の娘+織田信長の妻というだけあって、気が強く聡明な女性のイメージがあります。
しかし、先程もお伝えしたように濃姫に関しての詳しい資料はほとんど残っていません。
では、濃姫はどこで亡くなったのか?
大河ドラマや多くの歴史ドラマでは濃姫が織田信長と一緒に本能寺に宿泊していたという設定にされることがほとんどです。
しかし、個人的には信長が毛利攻めに向かうのに濃姫を連れて出陣し、本能寺に宿泊したとは考えづらいので、濃姫は信長亡き後も生きていたのではないかと思っています。
実際に信長の次男の信雄(のぶかつ)が家臣団の構成をまとめた書物に「安土殿」とい記載があるそうです。
安土というのは信長が築城した安土城のこと。
当時の女性は住んでいた場所の名前で呼ばれることが多いので、この女性が濃姫(帰蝶)のことではないかとされています。
書状が書かれたのは天正15年(1587年)で、秀吉が島津義久を降伏させて聚楽第を築城した年です。
なので濃姫は本能寺で亡くなったのではなく、豊臣秀吉が天下を取った後は、織田信雄のもとで静かな余生を送ったのではないかと思っています。
斎藤家の菩提寺常在寺にある斎藤道三の肖像は濃姫が寄進したものと伝わっています。
これはよく私たちが目にする斎藤道三の姿ですが、この肖像画を濃姫が寄進したとなると、信長の妻というより、斎藤道三の娘という事でその存在を感じることができます。
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