豊臣秀頼は秀吉が57歳の時に茶々(淀殿)に生ませた子供。

茶々は織田信長の妹・お市の子供なので、秀吉はかつての主君の姪との間に子供を作ったということになります。

 

しかし、この豊臣秀頼について回るのは本当の父親は秀吉ではないという噂。

今回は秀頼の本当の父親とされる人物と、秀頼の子供・国松についてです。

 

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秀吉と淀殿の疑惑

豊臣秀吉は正室・ねね(北政所)との間に子供を授かることはありませんでした。

さらに、大の女好きで多くの側室が居たにも関わらず、その側室との間にも子供ができる事はありませんでした(秀勝という子供がいたという説有)。

 

そんな中で唯一秀吉の子供を身ごもったのが茶々(淀殿)。

 

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茶々は秀頼の前にも鶴松という子供も生んでいます。

 

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天下人としておそらく数百人という女性と関係を持ったであろう秀吉。

その中で子供を生んだのが茶々だけというのはどう考えても不自然。

 

秀吉に種がなかったことは確実なので、そこで考えられるのが秀頼の父親は秀吉ではなく、他に本当の父親がいるのではないかという事です。

 

秀頼の父親は大野治長?

そこで、秀頼の父親として名前が上がるのが大野治長という人物。

大野治長は茶々の乳母であった大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)の子供。

 

しかも茶々と大野治長は同い年なので、2人は幼少時代から一緒に過ごした仲だということになります。

幼馴染ということで茶々にとって治長は気心の知れた存在だったに違いありません。

 

当時から茶々と治長の関係は噂されていて、2人が親密な関係にあることを伝える手紙も残っています。

また、秀頼の父親は秀吉ではなく治長だということは民衆の間でも噂になっていたようです。

 

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秀頼の体格と性格

秀頼の体格的特長として身長は197cmで体重が161kgという、当時としてはかなりの高身長で、肥満体系だったことが分かります。

豊臣秀吉の身長は150cm程度、一方の大野治長はとても身長の高い美男子だったと言われています。

 

茶々(淀殿)もかなり大柄で恰幅のいい女性なのでこれだけでは決められませんが、少なくとも秀頼の体格は秀頼よりも治長に近かったようです。

 

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秀吉には多くの側室がいながら子供が全く出来なかった事。

治長は茶々と幼い頃からの中で気心が知れた存在だった事。

 

この2つの事柄を考えると、常に茶々の側に居た大野治長が秀頼の父親である可能性はかなり高いのではないかと思います。

そして、そうでもなければ民衆にまで噂が広まるような事もないはずです。

 

『火のないところに煙は立たない』

 

秀頼の父親は治長である可能性も高いのではないかと思います。

 

子供国松の生存説

豊臣秀頼と大野治長、茶々(淀殿)は大坂の陣で命を落とし、秀頼の子供・国松は後に捕らえられて六条河原で首をはねられたとされています。

しかし、この国松には真田信繁の子供・幸昌(大助)が薩摩まで落ち延びさせたという生存説があります。

 

これは豊臣秀吉の子孫に当たる方の家に伝わる言い伝えで、国松は一度薩摩の島津氏のも元に落ち延び、その後は秀吉の甥の木下延俊の元で暮らしたと言われています。

 

秀吉の子孫の家に一子相伝で伝わる言い伝えらしいので、かなり興味深い内容ですよね?

 

真田信繁や秀頼にも生存説がありますが、これはこの話が誤って伝わったもので、実際はこの国松と幸昌が薩摩に落ち延びたというのが本当のところではないかと思います。

 

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