本多忠勝は徳川家康の家臣で徳川四天王に名を連ねる武将です。

戦における戦功は凄まじく、織田信長、豊臣秀吉も忠勝の武勇を賞賛しています。

 

戦国最強との呼び声も高い本多忠勝とはいったいどういった人物だったのでしょうか?

 

スポンサードリンク

本多忠勝ってどんな武将?

本多忠勝といえば徳川家康に仕え、生涯57の戦に出陣し一度も負傷しなかったという戦国最強の武将と言われています。

忠勝は武勇に関して比べるもののない豪傑でしたが、それ以外の功績はそれほど有名ではありません。

 

ではどんな功績がある武将だったのか?

まずは本多忠勝の略歴をみていきましょう。

 

 

本多忠勝(ほんだただかつ)

生没年 1548年~1610年

出身 三河国蔵前

主君 徳川家康→徳川秀忠

装備 兜 鹿角脇立兜

鎧 黒糸威胴丸具足

槍 蜻蛉切

馬 三国黒(晩年のみ、関ケ原で死亡)

藩 上総大多喜藩→伊勢桑名藩

戦歴 桶狭間から関ケ原まで徳川家の主だった戦にほぼすべて参加、57戦のうち全て無傷で帰還

 

岡崎城と忠勝の関わり

岡崎には元から三河の守護代である西郷氏が建てた砦がありましたが、そこに家康の祖父・松平清康が西郷氏から岡崎の地をもらいうけて建てたのが岡崎城でした。

忠勝の主君となる家康が徳川家康が生まれたのも岡崎城です。

 

忠勝も家康の側近として幼い頃から仕え、桶狭間の戦いで初陣します。

そして今川義元が戦死すると家康はすぐさま松平の本拠地・岡崎城を奪還し居城とします。

 

忠勝も三河一向一揆で多くの豪族が反逆した時に浄土宗に改宗して家康とともに岡崎に入城。

以後忠勝は常に家康の傍に仕え、その城下に屋敷を構えていました。

 

1570年に家康が浜松城に移ると忠勝もこれに従い浜松に移転しますが、伊賀越えの際には忠勝も家康とともに岡崎城を経由して浜松城に帰還しています。

 

忠勝は家康の関東転封後に上総大多喜藩、次いで伊勢桑名藩に移転となり桑名で生涯を閉じます。

家康と忠勝が岡崎城を居城としたのは1560年から1570年の10年の間ですが、以降も三河武士にとっては特別な土地でした。

 

戦上手で知られる忠勝と井伊直政の違い

最初にお伝えした通り、本多忠勝は13歳で初陣を飾ってから多くの合戦に参加していますが、生涯その身にはかすり傷ひとつ負うことがなかったと言われる武将です。

徳川家康の家臣の中で徳川四天王の一人に数えられ、家康が今川義元の下で人質時代を過ごしていた頃から天下を掌中に治めるまでの時代を切り開く役目果たしました。

 

忠勝の初陣は桶狭間の戦の前哨戦となる大高城兵糧入れの時。

育ての親である本田忠真が敵を討ち取り、忠勝に「この首を取って戦功にしろ」と言ったが聞き入れず、「自分の力で敵を討ち取ってみせる」と言って、見事敵の首を挙げたという逸話があります。

 

また、勇猛なだけでなく敵に対しての深い慈悲を持っていて、長篠の戦で武田家に大勝した後は、「武田家の惜しい武将たちを亡くしたと思っている。これ以上戦で血が騒ぐことはもうないだろう。」と愚痴をこぼすなど、武田家家臣たちに尊敬の念をもっていたようです。

 

実際に忠勝は戦に出陣する時に、鎧の上から大きな数珠を身に付けて出陣し、討ち取った敵の供養をしていたと伝わります。

 

こういった逸話を聞くと、無謀で野蛮なだけの武士ではなく、戦場に身を置く者として、心を鬼にして戦ったのがこの本多忠勝ではないかと思います。

豊臣秀吉が西国一の勇将に立花宗茂、東国一の勇将に本多忠勝の名前を上げていますが、これはただ単に戦が上手かったというより、戦場での立ち振る舞い全てに華があったという意味ではないかと思います。

 

徳川家中では、戦場に出るたびに傷だらけになっていた井伊直政と比較されることがありますが、これは直政は先頭を切って敵陣に切り込んでいく乗り込んでいく先頭隊長タイプ。

忠勝は後方で舞台を指揮する後方指揮官タイプという違いがあるため。

 

野球に例えると直政がエースピッチャーで忠勝がヘッドコーチ。

家康が監督といった感じではないでしょうか。

 

関連記事→井伊直政(虎松)の性格と評判!家臣に嫌われた悲しい最期とは?

 

真田信幸と共に昌幸の助命嘆願

本多忠勝は真田昌幸の息子・信幸(信之)に娘の小松姫を嫁がせています。

これは忠勝が信之の名将ぶりにほれ込み、真田を徳川方に取り込んでおきたいという狙いがあったためだとも言われています。

 

しかし、関ケ原の戦いで信之の父親である昌幸は西軍につき敗北。

徳川家中では昌幸や次男の信繁の処遇が問題になりました。

 

徳川家康や秀忠からすると、真田昌幸は上田合戦で二度にわたって苦渋を飲まされた敵。

しかも、その上田城は徳川の資金援助によって建てられた城であるため、昌幸に対する憎しみは尋常なものではありませんでした。

 

そのため、2人は強硬に死罪を主張。

しかし、本多忠勝は信之と共に、昌幸・信繁の助命嘆願に奔走しています。

 

一説には、助命の許しが得られなければ徳川家と一戦を辞さない構えで臨んだとも言われています。

忠勝はそれほどまでに義理の息子となった信之に対しても誠実に接していたようです。

 

「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」という言葉があります。

 

これは家康が武田信玄に大敗を喫した三方ヶ原の戦いの後に武田方が広めた言葉ですが、家康の所有している珍しい兜と本多忠勝は家康にはもったいないという意味です。

戦場での働きに加え、人としての器の大きさも本多忠勝の魅力だったようです。

 

忠勝の軍装と蜻蛉切

本多忠勝といえば有名なのが名槍「蜻蛉切」。

槍の先に飛んできた蜻蛉(とんぼ)が当たっただけで真っ二つに切れてしまったと言われるほどの切れ味を持つ槍です。

母里太兵衛が福島正則から呑みとった日本号と共に天下三名槍に数えられています(もう一つは結城晴朝の御手杵)。

 

忠勝も若い頃は柄の長さを長くした蜻蛉切を振り回して戦場で戦っていたようですが、体力が衰えてくると槍の柄を短くして使用していたようです。

そして忠勝のもう1つの軍装の特徴として、黒い鎧に大きな数珠を肩から下げるという出で立ちで、戦場を駆け回っていたことがあげられます。

 

鎧もあまり重厚なものでなく軽装を好んでいたとされ、数珠を肩から掛けていたのは、自ら討ち取った兵を弔うためだったと言われています。

数珠を身に付けて戦っていたというのは、戦場で多くの敵を討ち取り名声を得てはいたものの、戦で戦うことが必ずしも本意ではなかったということが良く分かる逸話ではないでしょうか?

 

井伊直政との連携

姉川の戦い、一言坂の戦い、小牧長久手の戦いなど勇猛な働きをした戦いを挙げればきりがない忠勝ですが、関ヶ原の戦いには井伊直政と共に軍監(軍の監視役)として参戦しています。

関ヶ原の戦いに参加したのは殆どが福島正則黒田長政などの豊臣恩顧の大名で、一番乗り争いの調停にも苦労したようですが、その責務を果たし、東軍を勝利へ導いています。

 

その際には、井伊直政と共に黒田長政を通じて吉川広家や小早川秀秋の調略に努めるなど槍働き以外にも手腕を発揮しています。

その他にも、関ヶ原の戦いの後は様々な調停、交渉、調整役として苦労したようで、家康の天敵である真田昌幸、幸村親子の助命などを辛抱強く家康に掛け合っていたと言われています。

 

織田信長が「花も実も備えた剛の者」と評した本多忠勝は、当たり前のように仁智勇を兼ね備えた武将だったようですね。

 

関連記事→酒井忠次ってどんな人?若き日の徳川家康を支えたの老将の晩年!

関連記事→石川数正が徳川家康を裏切って秀吉についた理由!!

 



Sponsored Link