吉田松陰といえば、教科書などで肖像画を見たことがある人も多いと思います。
もしかすると初老のいかにも学者のような出で立ちを思い浮かべる人も多いかもしれませんね?
しかし吉田松陰が亡くなった時は30歳(満29歳)という年齢でした。
松下村塾の塾生の世代と年齢
松下村塾の指導者ということで、生徒達より遥かに年上の人物と思っている人も多いかもしれません。
現代に伝わっている肖像画も威厳を持たせるためなのか、何となく高めの年齢で描かれているような気もします。
松陰が処刑された安政6年(1859年)時点において、松下村塾の塾生の高杉晋作は20歳、久坂玄瑞は19歳。
塾生ではありませんが、松陰と懇意であった桂小五郎は26歳でした。
松陰は尊王攘夷の先がけというイメージが強いですが、意外と皆と同世代だったりするのです。
若者が立ち上がったことで成し遂げられた明治維新。
現代の20代、30代という年代と比べても、当時の若者がどれだけ国を思う高い意識を持っていたかが分かります。
25歳、命がけの行動
松陰は生涯2回投獄をされています。
2度目は、いうまでもなく安政の大獄で処刑になった時です。
では最初の投獄時に何をやらかしてしまったのでしょうか?
1853年、浦賀沖にペリー提督の率いる艦隊が来航します。
その時、黒船を目のあたりにし、力の差に日本の危機を感じます。
そこで、海外渡航をして西欧列強のことを知り、日本を守る力に変えていかなければいけないと考えた松陰は、翌年にペリーが再来航した際、沖に停泊する艦隊に夜間小舟を使って乗り込むという強硬手段に出ます。
当時無断で海外に行くことは重罪。
命を顧みない密航という手段に出た、この時の松陰の年齢は25歳でした。
結局、艦隊乗組員に拒否され下船。
自首した後に投獄されることとなります。
後日、艦隊上で松陰が手渡した手紙が発見されました。
「外国に行くことは禁止されていて破れば死罪は逃れられない。しかし私は世界が見たい。慈悲の心で船に乗せてほしい。」といった内容でした。
「太平の眠りをさます蒸気船、たった四隻で夜もねむれず。」と歌が詠まれるような時代。
元々外国への見識のあった松陰ですが、無意味に抵抗するのではなくまず相手を知りたいと考え、外国という未知の場所へ飛び出そうとするバイタリティには脱帽です。
現代の私達の価値観からすると、20代でこういった国のために自分の命を顧みないという考えを持っていることに驚くばかりです。
松陰は、松陰先生と呼ばれることが多いですが(塾の指導者なので当たり前なのですが)、年齢的にはまだまだ若者と呼ばれる世代であったという事実に考えさせられる事が多いですね。
反応しました。
①「太平の眠りをさます蒸気船、たった四隻で夜もねむれず。」と歌が詠まれる。
太平は泰平でしょ。蒸気船は上喜撰、四隻(よんせき・よんそう)では狂歌になりません。
正しくは、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」です。この狂歌が素晴らしいのは、ペリーが四隻の船でやって来て、天下太平の眠りを覚まさせたということを、宇治の高級な茶「上喜撰」に蒸気船をかけ、四隻と四杯をかけ、四杯も飲んだので眠れないと風刺している点である。
②幕末に来日した外国人、ペリー・ハリス・ヒュースケン・プチャーチン。どうしてフルネームで言わないのか?ペリーは、マシュー・カルブレイス・ペリー。プチャーチンは、エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン。覚えるのは無理だ。
③ペリーが旗艦として搭乗していたのが、確かサスケハナ。日本の佐助・花と日本語に近いから。