幕末から明治の薩摩を語る上で外せない人物に桂久武という武士がいます。

久武は兄の赤山靭負(ゆきえ)をお由羅騒動で亡くし、自身も西郷隆盛の親交から西南戦争に参加するなど、波乱の生涯を送ります。

 

では、桂久武と西郷隆盛はどのような関係で、なぜ西南戦争で行動を共にすることになったのか?

今回は桂久武の功績や最期の様子についてみていきましょう。

 

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久武はなぜ兄・靭負と名字が違う?

桂久武は島津家の分家で薩摩藩の家老である島津久風の子供として生まれます。

その後、島津一門の桂家の養子になったため、兄の赤山靭負(ゆきえ)と同じく名字が島津ではありません。

 

 

ただ、養子に出たとは言っても久武が生まれた日置島津家は代々薩摩藩の家老(藩の家臣の中で最も高い地位で、藩主を助けて藩の政治を行っていた者)を出してきた家柄。

父の跡を継いだ一番上の兄・島津久徴(ひさなが)が島津斉彬と忠義(斉彬の次の藩主で、久光の息子)の家老を務め、弟である久武も、後に忠義の家老を務めることになります。

 

久武が隆盛と親しくなったきっかけとは?

兄たちと同じく有能だった久武もさまざまな役職に就きますが、藩主が忠義に変わってから、兄の久徴が家老を辞めさせられ、その影響で久武も奄美大島に飛ばされてしまいます。

兄弟というだけで左遷されるとは何ともひどい話ですが、当時はこれが当たり前。

 

という訳で、久武は奄美大島で大島守衛方という役職に就きます。

当時、アメリカやフランスなどの国々と条約を結んだ関係で、琉球(沖縄)に外国の船が入港しており、近くの奄美大島にも外国の船が寄ったり、勝手に停泊したりしていました。

しかし幕府は鎖国をしていたので、藩は独自にこの役職を置き、外国の船になぜ寄ったのか、何か要望はあるかを聞き取り、早いうちに島から出て行ってほしいと説得させていました。

 

つまり、久武は外国人との交渉窓口の仕事をしていたという訳です。

 

そして、この時に出会ったのが西郷隆盛。

この頃の西郷隆盛は一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍にすることに失敗し、月照というお坊さんと一緒に自殺。

しかし、自分だけが助かってしまい、それを幕府に隠そうとした藩によって奄美大島にかくまわれていました。

 

おそらくこの時代は2人にとっては不遇の時代。

満たされない思いを抱えていた久武は毎晩のように隆盛と日本の未来について語り合い、その絆を深めていきます。

 

再び出世の道へ…薩長同盟に貢献

奄美大島に飛ばされてから3年後、久武は大目付(藩内を監視する役職)に就き、その後家老を務めることになります。

そしてこの頃、薩摩と長州による薩長同盟が結ばれようとしていました。

薩長同盟は土佐の坂本龍馬が間に入って、それまで仲が悪かった薩摩と長州が、打倒幕府を目指して結んだもの。

同盟を成功させるために久武も動き、京で長州の木戸孝允を手厚くもてなして「薩摩と長州で同盟結びませんか?」「いいよ。」と認めさせます。

 

いつの時代も接待って大事!

一般的に薩長同盟は桂小五郎や西郷隆盛、坂本龍馬といった有名な志士の功績とされていますが、その陰には久武などの無名の武士の活躍があったことも忘れてはいけません。

 

薩長同盟が結ばれると、時代は明治維新に向かって本格的に動き始めます。

 

明治維新後…久武、マイペースを貫く

明治維新の後、久武は鹿児島藩の大参事になります。

大参事というのは現在の副知事にあたる役職。

 

久武は明治維新後は鹿児島の権力者として政治に関わっていきます。

その後、都城県(現在の宮崎県南部と鹿児島県東部)の参事になり、豊岡県(現在の京都府北部と兵庫県北部)の県令(現在の知事)になるよう命令が下りますが、病気のためにそれを辞退して、鹿児島の霧島に移住します。

その後は一切政府や県の役職に就きませんでした。

 

しかし、優秀な久武を放っておかなかったのが大久保利通。

彼は同じ薩摩出身の実業家・五代友厚に「久武に政府の役人になるよう頼んでくれないか」と依頼しています。

このように、久武の政治家としての能力には大久保利通も一目を置いていたようですが、久武は再び政治の世界で生きることを選びませんでした。

 

久武が霧島で行ったのは現地の開拓。

畑や田んぼを開き、用水路を作り、人々を新たに住まわせました。

 

開拓にはたくさんのお金が必要でしたが、全て久武が家老だった頃にもらった給料でまかない、霧島小学校を建てるための土地も桂家から提供されたといわれています。

久武が霧島の開拓に取り組んだのは、明治に入って武士がそれまでの特権を失う可能性が高いと予想したからで、この開拓は武士たちに職を与えるという目的もあったのです。

 

さすがは久武!やはりこの辺りは先見の明があったということですね。

 

隆盛との出陣前夜の語らいから西南戦争へ

隆盛は征韓論(日本と国同士の交流に関する交渉をしない朝鮮について、新政府の中で起きた議論)で大久保たちと対立すると、新政府での地位を捨てて鹿児島に戻ります。

 

役職を失っても隆盛は久武と親しく付き合いを続けていました。

そんな中、不平士族の不満が爆発し、遂に西南戦争が起こってしまいます。

 

久武は最初戦いに参加するつもりはありませんでしたが、結果的に西南戦争に西郷軍として参加しています。

 

では、久武の心変わりにはどんな理由があったのか?

実は西郷軍が出陣する前の晩、久武の家には隆盛が訪れていました。

 

そこで奄美大島にいた頃のことを遅くまで語り合ったのがきっかけになったのか、久武は西郷隆盛を放っておくことができず、西郷軍を見送る途中で家の者に刀や弓矢などを取りに行かせて、そのまま西郷軍に加わっています。

 

こういった経緯で西南戦争に参加した久武は最後まで隆盛と行動を共にします。

しかし、西郷軍が追いつめられて城山から反撃に出た際、流れ弾に当たり命を落としています。

 

この西南戦争では久武の息子も戦死し、親子で鹿児島市上竜尾町の南洲墓地に眠っています。

 

最後まで隆盛との友情を大事にした久武。

お由羅騒動で自らの道を貫いて切腹した兄・靭負と同じく、自分が大事にしているものを守り通した生涯でした。

 



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