井伊直弼と井伊直虎はどういう関係?桜田門外に散った大老の家系と実績とは?

「井伊」という名字を聞いて思い浮かべる人物といえば、幕末の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を思い浮かべる人が多いと思います。

今でこそ、直虎や直政という井伊家の人物が有名になっていますが、多くの人が教科書で学んだのは井伊直弼のはずです。

 

では、井伊直弼と井伊直虎は何か関係があるのでしょうか?

もしかして井伊直弼は直虎の子孫?なんて疑問が湧いてきた人もいると思います。

 

そこで今回は、井伊直弼に続く井伊家の家系を見ていきましょう。

 

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井伊家の家系図と直弼のルーツ

遠江の小さな国人でしかなかった井伊氏は、直虎・直政の代に徳川に付いたことで栄達し、その後は現代に至るまで彦根で繁栄しつづけています。

 

江戸時代、家康から慶喜の時代まで歴代12人任命された大老のうち、半分が井伊家から輩出されたことを考えると、井伊家が徳川家の中でどれだけ重要なポジションにあったかが分かります。

 

井伊直弼を含め、先代当主までの井伊家当主は全て直政の直系です(現当主の直岳氏は娘婿)。

直政には直勝、直孝の2人の息子がいましたが、彦根藩を継いだのは次男の直孝です。

 

具体的にはこの直孝の血統が現在まで続いています。

 

もっと遡ると、直虎・直政の曾祖父の直平の息子のうち、直宗と直満の家系から子孫が現れ、

 

直宗-直盛-直虎。

直滿-直親-直政-直孝・・・。

 

と続いていきます。

 

現在まで続いているのはこの直政の家系だけです。

直虎は直親との婚約が破談になって以来生涯未婚であったために子はなく、直宗の系統は直虎で断絶します。

 

一方、直弼は直政から数えて10代目の子孫に当たります。

 

 

ちなみに、直弼の叔父には真田幸専(ゆきたか)という人物がおり、男系子孫が断絶した松代藩真田氏(真田信之の子孫)を相続しています。

真田氏はこの後に宇和島藩の伊達氏(伊達秀宗系統)からも養子をとっており、真田氏は井伊氏と伊達氏の子孫によって続いていきます。

 

井伊直弼が歴史の表舞台に出ることになるきっかけ

井伊直弼は1815年(文化12年)、父・直中の十四男として生まれました。

直中はとにかく子宝に恵まれたようで子供達は次々と他の家の養子に出されたり、その役目がない者は部屋住みといって実家で何となく過ごすしかない身分となってしまいました。

 

実は直弼も養子の先がないことから部屋住みとなり、そのままいけば名を残すことなく生涯を終えているはずでした。

その証拠に、直弼は実に15年もの間部屋住みとして日々を過ごしました。

 

かつての米将軍・徳川吉宗もそうですが、部屋住みの子息というのは仕事を与えられるわけでもなく暇です。

そのため、何かに打ち込む時間が豊富に存在するのです。

 

直弼も国学(神道)、茶道、武術(兵学・剣術・槍術)・能楽など数多くの分野で優れた功績を残し、直弼が記した著書には能楽や茶道の作法などがあります。

これは現代でも受け継がれているもので、良家の子弟らしく教養豊かで聡明な人物としての片鱗を既に見せていました。

 

当時、井伊家の当主は直弼の兄・直亮(なおあき)、しかし直亮には子がなかったために世継ぎもまだ弟の直元(直中の十一男、直弼の兄)でした。

1846年(弘化3年)、直元は家督相続前に亡くなります。

 

直亮は既に53歳。

新たに妻を娶ることもなかったので、急遽部屋住みであった直弼を養子とします。

直弼は時に32歳、まさかの任命でした。

 

そして1850年(嘉永3年)、直亮が亡くなると直弼は井伊家当主の就任して彦根藩を相続します。

そして彦根藩ではその名君ぶりを発揮し、ペリーが浦賀に来航すると浦賀港の防備の任に就きます。

 

当時の老中首座・阿部正弘がペリーの要求について諮問した際には開国を主張。

ただしこれには諸説あり直弼は本来鎖国を支持していましたが方便としてあえて開国を主張したに過ぎないとの考えもあります。

 

当時、正弘は幕政に勢力の強い藩と連携して政治を行おうと考え、攘夷思想の強い水戸藩の徳川斉昭を外交顧問にするなどして対応に追われていました。

この斉昭と直弼の政治方針が一致せず、開国派の直弼と攘夷派の斉昭は激しく対立していました。

 

これに加え、13代将軍・家定は一般に将軍としての器に乏しくもっぱら料理に専心した事から『芋公方』と揶揄されていました。

その継嗣を巡って、直弼は紀州徳川家の慶福(よしとみ)を、斉昭は一橋家当主で自分の子でもある慶喜を擁立していました。

決闘から言うと慶福は11代家斉の孫であり家定から血統が近い人物でしたがまだ20にも満たない年少者、一方慶喜は年齢・資質ともに申し分ないものの水戸徳川家は家康まで血統を遡らないといけない遠縁者。

 

結局、阿部正弘が慶喜は血統が遠すぎるとして将軍には適さないと判断し、慶福改め家茂が13歳で将軍を継承しました。

この頃、阿部正弘や徳川斉昭が相次いで亡くなっており、直弼の政敵いなくなっていました。

 

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安政の大獄と桜田門外の変

将軍継嗣問題が決着する以前、直弼は最高権力者である大老に就任しました。

初代大老は祖先の井伊直孝、井伊家にとっては由緒ある役職です。

 

ペリー来航以来、アメリカは日本に対し執拗に開国を迫りました。

直弼自身は調印もやむなしと考えていたようですが、ただ一つ、天皇の詔勅なしに幕府の独断で行うことを良しとしませんでした。

 

しかし、米側の長官・ハリスが調印を急がせると、直弼は善後策を問うてきた部下に対し「やむを得ないなら調印してもいいが出来るだけ引き延ばすようにしなさい」と指示します。

部下はこれを許可したとしてついに幕府の独断で日米修好通商条約に調印しました。

 

水戸藩ら攘夷派はこの天皇無視の行為に怒り、時の孝明天皇を動かして直弼と幕府を激しく非難します。

家康以来、朝廷は幕府の政治に関与することはほとんどありませんでした。

 

しかしここに及んで幕府が朝廷に関与されることを危惧した直弼は、攘夷派とみられる志士や幕臣、藩主を次々と投獄・処断し直弼独自の政治路線を開こうと考えました。

世にいう安政の大獄です。処罰対象には勝手に条約に調印した幕臣も含まれ、攘夷派につけ入る隙を与えまいとしました。

 

しかし、この行為に攘夷派は危機を感じて水戸藩では直弼襲撃の謀議が重ねられました。

直弼もこの動き自体は察していたようで、ある時に直弼と面識のあった鷹司松平家の当主・松平信発が「水戸藩が不穏な動きを見せているから、いったん大老を辞して彦根で謹慎した方が良いのでは?」と助言しました。

 

しかし直弼はこれを固辞し増やしていたはずの護衛を即廃止し、自分かわいさに人の盾を作ることをやめさせています。

 

1860年(安政6年)3月3日、大雪の中直弼は桜田の藩邸から江戸城に出立しようと駕籠に乗っていました。

計60命ほどの行列が桜田門外を通り過ぎようとしたとき、水戸脱藩藩士と薩摩藩士の計18名が襲撃。

 

重傷を負った直弼は駕籠から動けず供回りの狼狽して逃走、直弼は駕籠から引きずり出されて首を討たれました。享年46歳でした。

 

直弼死後の江戸幕府

直弼の死は幕府も狼狽し、あろうことか大老が殺されたなどと公表するわけにもいかなかったので病により隠棲、後に死去という公式見解を発表しました。

息子の直憲の家督相続も順調にはいかず、相続許可までに1ヶ月以上もかかりました。

 

以降の幕府は傀儡に近かった家茂と皇女和宮を結婚させる公武合体をおこなって攘夷の意志を見せて攘夷派を鎮めようとしましたが、長州藩や薩摩藩の働きもあって攘夷が当時の国勢に到底敵わないことを知り、やがて攘夷派はイギリスらの力を利用しつつも新たな政権を作り出そうとする討幕派に転向します。

 

そして大政奉還、明治維新と続き日本は幕藩体制から近代国家への道を歩むのです。

 

余談ですが、井伊家の赤備えは直弼の時代に至ってなおも健在でした。

黒船を見た時など「この赤備えを見たら外国も驚くだろう」と高を括るほど戦国時代の武士の価値観は武士達に刷り込まれていました。

しかし、彼らは戊辰戦争を経てそんな旧態依然とした刀の時代の装備に絶望し、鳥羽伏見の戦いではその鎧を我先に脱ぎ棄てたと伝わります。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

幕末は戦国とはまるで違ったタイプの争いが繰り広げられていましたが、直政が築き上げた赤備えと井伊の知勇は幕藩体制の中でも存分に発揮されていたようです。

 

直虎の家系は残念ながら継承されてはいませんでしたが、井伊家の家名を残した彼女の活躍は結果後世にまで影響を与えていたようです。

 

しかし、直弼がそうした祖先の活躍をどこまで知っていたのでしょうか?

 

どの時代でも、祖先と子孫は時代が違えば育った環境も違うので家柄はあくまで看板。

結局資質は一人ひとりまるで異なるという事ですね。

 

他にも戦国時代に活躍した人物の子孫が幕末には何人も活躍しています。

皆さんも、家系を辿ってみると意外な家系が意外な場所で活躍しているのを発見できるかもしれませんよ。

 

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