江戸時代、それは150年の戦国時代を経てようやく訪れた平和な時代でした。

しかしそれも決して幕府を建てたからすぐに平和になったのではなく、やはり多くの人が心血を注いだ結果『戦国』という下克上の風習を少しずつなくしていき完成したものです。

 

一般的に、江戸時代の幕藩体制が完成したのは3代将軍・家光の時代だと言われていますが、その中で特に功績を挙げた3人は家光を支えた3本の脚に例えられています。

大奥の創立や朝廷とのやり取りに貢献した春日局、家光の教育や隠密行動による大名の統制に貢献した柳生宗徳、そして武家諸法度の制定や鎖国と言われる貿易統制に貢献したのが今回の主人公、松平信綱です。

 

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松平信綱の概要

【名前】 松平信綱(まつだいらのぶつな)

【生没年】 1596年~1662年

【主君】 徳川秀忠→家光→家綱

【肩書】 江戸幕府老中(一字首座にもなる)、伊豆守

【あだ名】 知恵伊豆

【性格】 切れ者、聡明、くそ真面目、冷静

【嫌いなもの】 茶の湯、歌謡その他の芸術娯楽

 

松平信綱は1596年、大河内久綱の長男として生まれました。

大河内家は元々三河の吉良氏に仕えていましたが、信綱の祖父の時代に家康に臣従してからは徳川家臣となっていました。

 

大河内氏は本来は徳川氏とは何ら血縁関係はないのですが、信綱の叔父である正綱が松平氏の分家を継いだことから一応親族扱いになっていました。

幼少の信綱は自分が将来出世したいからと言って、長男でありながら大河内の名を捨てて叔父の養子になったと言われています。

 

信綱は父に従って江戸城に入り、間もなく家康に孫の家光が生まれるとその小姓になります。

やがて家康が亡くなると小姓組番頭に任命され、家光が将軍となると相模国に領地を与えられ、後に老中に昇格します。

 

これと同時に武蔵国忍藩(のぼうの城の忍城のことですね)、続いて武蔵国川越藩に転封となります。

後に小姓組番頭を解任となり老中職に専念、老中や若年寄等の主な幕府の重臣の職務定則を制定したりしています。

家光が日光東照宮に参拝した際は江戸の留守を任されるほど信頼されていました。

 

1637年末、天草・島原で反乱が起きると(島原の乱)、信綱は自ら出陣してこれを鎮圧。

以後はキリシタンの統制をより厳しくし、オランダやポルトガルとの貿易を制限し鎖国を完成させます。

 

家光が亡くなり家綱の時代になっても信綱は健在で、浪人の反乱である由比正雪の乱の鎮圧も信綱が関わっています。

江戸城まで火が及んだ明暦の大火が起こった際も信綱は対応しています。

 

信綱が亡くなったのは1662年のこと。

生前から自分の権威が過度に高まることを恐れて必要以上の領地や褒美をもらうことを拒否していたため領地は決して多くはなく、以後の松平伊豆守家は小さな藩主という立場を貫き通し、そこから新たに老中が出たりすることはありませんでした。

 

知恵伊豆・信綱

家康時代の本多正信もそうですが、頭が切れる人というのは後難を恐れて立身出世を望みません。

その代わり、いったん問題に直面すると瞬く間に最良の方法で解決してくれるので「知恵伊豆」「あれは人じゃない」と言われ恐れられていました。

※伊豆は伊豆守という役職からついたあだ名。

 

江戸城内にいた頃から家光のわがままを聞いては解決していましたが、島原の乱では数では圧倒的に勝るはずの幕府軍がどうして勝てないのかを瞬時に見抜き、戦歴が足りないことと藩主が圧政を敷いていることだと判断します。

 

そこで率いたのが立花宗茂ら戦国時代を生き抜いた老将達です。

そしてこの時にオランダから買った大砲や戦艦、実際は威嚇射撃程度で実際に与えた被害は大きくないのですが、反乱軍が籠城で切羽詰まっていることをわかっていたので大坂の陣さながらに心理戦を仕掛けたのです。

 

そしてキリシタン弾圧は国内や外国に対する見せしめでもあったのです。

日本の鎖国は当時の世界情勢を見ても排他的な考えでもありますが、信綱のおかげで日本はアジアでも珍しい植民地にならない国として独立を保っていたのです。

 

明暦の大火では江戸城を含む街の60%燃えてしまい、家康以来の都市の繁栄が灰燼に帰してしまいました。

火元は諸説ありますが、いずれにせよ合計3万人以上が亡くなり多くの人が家を失いました。

 

火事の際に信綱は城内にて大奥女中を逃がしています。

消火後には一部の大名の参勤交代を中止させ、余った米などを被災者に分け与えるように命じました。

 

この時のエピソードとして、江戸城外に建てた対策本部では席次が決められていませんでした。

城内では官職が高い者が上座に座るのは当然で、老中首座の酒井忠勝は対策本部に来た時に上座に座ろうとしましたが既に先客がいました。

 

忠勝はすねて帰ろうとしましたが、信綱はそれどころじゃないでしょと諫めて事を収めたとも言います。

 

他にも由比正雪の乱やそれに続く老中暗殺未遂事件に関しても、信綱は幕府転覆にも繋がりかねない問題をあっさりと解決し江戸幕府を鎌倉、室町の二の舞にしませんでした。

こうしたことから幕臣達も信綱には手が出せなかったのです。

 

人望のない厳しすぎる性格

しかし信綱のこうしたあまりの潔白ぶりに人々は親しみを感じず、意外にも尊敬されたりはしなかったようです。

石田三成や本多正信もそうですが、彼らは決して自分の身の丈以上のものを望みませんでした。

 

信綱は特に一切の娯楽を嗜まず、ひたすら仕事に打ち込んでいきました。

或いは計算づくだとも評されるこの態度ですが、信綱は当時もてはやされていた武士の美徳というものをあまり重視していなかったようにも思えます。

 

その最たる例は、家光が亡くなったとき。

当時は主君が亡くなったら小姓など長く付き従った家臣は殉死する習慣がありました。

 

これは戦国時代から続くものですが、江戸時代になってもまだまだ根強いものでした。

ところが信綱は家光に「自分が死んだら家綱を補佐してくれ」と遺言されていたこともあり、追い腹斬ってこの世からおさらばということはなく、引き続き老中として幕政を握っていました。

 

一部の幕臣からするとこれは権力を奪うチャンスが亡くなったのと同じで信綱は非難されることもありましたが、「生きて幕政を支えることこそが真の忠臣だと思うが」と言い返してやり過ごしていました。

 

何の実績にもならない美徳を本当に重視しなかった合理的な性格の信綱は、確かに現代にいてもあまり親しみやすい人物ではないかもしれませんね。

 

川越氷川祭りを始める

松平信綱は老中であると同時に川越藩主でもありました。

川越藩は川越大火を呼ばれる火事が起こった後に信綱によって復興され、やがて小江戸と呼ばれる繁栄を築いたのです。

 

川越氷川祭りは神田祭等の影響を受けて江戸の伝統を色濃く残している祭りとして知られていますが、これも信綱によって寄進された神輿が使われたことから行われるようになった祭りです。

明治維新以降になって電線に引っかかる恐れから山車を用いた祭りが次々と禁止される中で珍しく生き残った祭りとしても有名ですが、信綱が産んだ伝統は今でも続いているのです。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

趣味で功績を残さず仕事一筋だったこともあって、功績があるようでない信綱でしたが、彼はどちらかというと名サポーター、政治顧問という立ち位置が似合っているでしょう。

 

全権を担うようなことをするには少しパフォーマンスが足りないといいますか、おそらくそうした体面を取り繕うことは彼の特技ではなかったでしょう。

かといって指揮能力も高いので完全な裏方になるほど隠密向きともいえませんが。

 

重要な人物なのですが、改革者ではないのでそれほど名が知られていない松平信綱。

しかしこういう人物から学ぶことは思いのほか多いものです。

 



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