江戸時代も後半になると、幕府の政治や役人の汚職に対して不満を持つ者がだんだんと増えていきます。

中には幕府に対して実際に強硬手段に出る者も現れますが、大塩平八郎はそうした幕末の動乱につながると反幕府いう流れを形成したという点では、最も早い人物かもしれません。

 

今回は、大塩平八郎と彼が起こした反乱・大塩平八郎の乱について見ていきましょう。

 

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大塩平八郎の略歴

 

【名前】 大塩平八郎(おおしおへいはちろう)

【生没年】 1793年~1837年

【職歴】 大坂町奉行組与力(現代でいえば大阪が管轄の一警察官)

【学問】 陽明学(ほぼ独学で習得した)

【性格】 頑固、ストイック、禁欲的、厳格

 

代々続く名与力

大塩平八郎は、江戸時代に代々続いた与力の家系に生まれました。

彼の幼少期についてはよくわかっていませんが、学問を納めて非常に規則正しい生活を送っていたと言われています。

 

若い頃から厳格な性格だった大塩は、毎日決まった時間に就寝、夜は天体観測を行い、朝5時には門弟に向けて講義を行い、8時に出勤という鉄の掟を守り、絶対に不正を許さなかったことから、友人からも「君は人と会うときは刀を持ってはいけない」と注意されています。

 

そんな正義感溢れる性格の大塩は、与力としては非常に優秀で、同僚の不正や隠れキリシタンの摘発で大活躍しました。

そのため、大塩平八郎が活躍した大坂町奉行所とその他畿内の奉行所は一斉に不正を摘発されています。

 

しかし、大塩は幕府の首脳陣の不正まで捜査をしたため、出過ぎた動きが幕府からも警戒されており、最終的には捜査を打ち切るよう上から圧力をかけられています。

1830年、大塩の最大の理解者だった上司が転勤によって大坂町奉行所を去ることとなると、大塩は隠居して養子の格之助に家督を譲ります。

 

大塩平八郎が反乱を起こした理由

隠居後の大塩は学問に専念し、変わらず門弟に講義を続けています。

大塩が講義をしたのは陽明学です。

 

陽明学は中国の王陽明が開いた学問で、当時幕府が推し進めていた朱子学と違って、「真理は自分の心の中にあり、1人1人が学問をして極めていけばそれをみつけることができる。決して外の権力に頼ってはいけない」ということを掲げていました。

幕末の吉田松陰らも陽明学を学んでいましたが、上下関係を重んじる朱子学とは逆に反抗的だとして江戸時代では危険視されていました。

 

大塩が隠居していた時、日本は天保の大飢饉によって農作物の急激な収穫不足が起こっていました。

当時、大塩がいた大坂では餓死者が1日に150人から200人、京の都や大坂では流民が溢れて治安が悪化していました。

元から米が足りないのに商人が米を買い占めてしまい、一般民衆が米を買えないという事態になったのです。

 

大塩は大坂西町奉行の矢部という人物に政治顧問として招かれ対策を行い、どうにか大坂は無事を保っていました。

しかし矢部が転任し跡部良弼という人物が東町奉行となると、飢饉は止められなくなっていきます。

 

跡部は実は当時幕府の政治を仕切っていた老中・水野忠邦の実弟でしたが、そのために幕府へ人気をとろうとする態度が目立ってきます。

跡部は同じく飢饉となっていた江戸に向けて大坂産の米を送り続けていました。

 

大塩は「大坂の民が米を食べられずに苦しんでいるのに、それを無視して江戸に米を送るとは何事か!」と跡部に江戸への米の輸送を停止するように献策します。

しかし跡部はこれを筆頭に大塩の意見を尽く無視するのです。

 

実は跡部も決して馬鹿ではなく、いよいよ大坂の状況が深刻になると江戸の商人の米の買い占めを拒否しています。

それに大坂産の米をできるだけ安くするように高値での売買を禁止する政令も出しています。

 

個人的には、大塩を中心とする革新派と跡部ら幕府派の間には何か決定的な考えの違いがあり、それが徐々に政策の意見の違いにもなったのだと思います。

 

大塩は自分の家にあった5万冊ともいわれる書物を全部売って民に救済を施しましたが、それだけではとても追いつかず、ついには自分の意見を聞こうとしない跡部らを殺して幕府に訴えようという考えに至ってしまいます。

元からとても厳格で短気な性格だった大塩には、跡部と協調路線を取ろうという考えはありませんでした。

 

大塩平八郎の乱が勃発

大塩らは農民らによる商人邸宅の打ちこわし対策だと称して大砲や火薬類を買い込み、密かに軍事訓練を行わせていました。

そして大坂に新たに西町奉行に赴任する堀という人物が跡部に挨拶に来る時に2人を爆殺しようとする計画を練ります。

 

しかし、大塩の門弟の中にこれを奉行所に密告する裏切者が出てしまいます。

そのため、跡部らもこれに備えてしまい爆殺は不可能になってしまいました。

 

大塩はまだ準備が不完全でしたが、仕方なく自宅に火を放って反乱を宣言し、あちこちの商人邸宅を襲撃させます。

大塩一派は門弟や農民を含めて総勢300人くらいでした。

大坂の町は大塩一派の奇襲にて5分の1が焼けてしまいます。

 

これを大塩焼けといって大塩の乱の被害の大きさを物語りますが、大塩は本当なら跡部を殺して幕府に奉行所のずさんさを報告して終わりにするはずでしたが、予想外に戦火が広がってしまっていました。

奉行所はすぐさま大塩一派を攻撃し、僅か半日で反乱は鎮圧されてしまいました。

 

大塩はこの時1人跡部暗殺の機会を伺っていましたが、反乱鎮圧の知らせを聞くとがっかりした様子で逃亡し、最終的にはある商家の家に養子の格之助と2人で潜伏します。

一か月後、この家に仕えていた女中が「この頃毎回食事の準備をするときに2人分余計に作っているけどどういうことなのか?」と思い、密告を行います。

 

こうして大塩は奉行所に発見されて、潜伏先を包囲されます。

 

大塩平八郎終焉の地の案内板

↑大阪市の本町にある大塩平八郎が潜伏していた屋敷の跡↑

 

大塩と格之助は邸宅に火を放ち爆死、遺体は見分けがつかない状態になっていました。

 

こうした経緯もあって、大塩は生存説を疑われ当時日本で恐怖の対象となっていた外国船と関連づけられて「大塩が黒船を指揮して攻めてくる」と噂されていました。

大塩の反乱自体はそれほど大きなものではありませんでしたが、幕府の役人だった人間が反乱を起こしたこともあり、当時の奉行所・幕府に対する信頼がガタ落ちでした。

 

大塩平八郎終焉の地の石碑

↑大阪市本町にある大塩平八郎終焉の地の石碑↑

 

これ以後も「大塩門弟」「大塩残党」と名乗った反乱が相次ぐこととなり、こうした不安定な状況が数十年も続きます。

 



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