徳川秀忠といえば、何を隠そう徳川家康の三男で江戸幕府の二代将軍です。

しかし、彼は他の兄弟達と比べるとその活躍はどこか乏しく、偉大な初代に次ぐ二代目の宿命といいますかどこか地味な印象を受けます。

 

戦国時代の間はそれほどめぼしい功績もなく、太平の世になってからも世継ぎ騒動では決定打を与えらえないなど頼りなさの方が目立つばかりです。

 

一方、開祖である家康は勿論、秀忠の息子で三代将軍・家光は世継ぎ騒動や参勤交代、島原の乱といった日本史でも主だった事件に絡んでくることから秀忠よりも際立った活躍をしているようにも見えます。

しかし、秀忠が派手か地味かはともかく、彼も一応後世の将軍とは違い戦国の世を生きた男。

 

最終的に彼が武勇に優れた兄弟達を差し置いて二代将軍となれたのにはどういう理由があったのでしょうか?

今回は、戦国と太平の狭間を生きた徳川秀忠がどのような人物であったのかについて、考えてみましょう!!

 

スポンサードリンク

秀忠の性格

秀忠の性格を端的に表す言葉として、徳川家の記録『徳川実記』では「御幼少の頃から仁孝恭謙の徳を備えられており、何事においても父君の訓戒を遵守して取り組まれた。」と記されています。

その他の兄弟については「信康、秀康、忠吉らは皆武勇に優れて蓋世の気を持っていた。」とあるように、武将としては一流の才覚を持った者達として敬われていたようです。

 

 

徳川の主軸を為す三河武士は本多忠勝に代表される武辺者が多く、信康、秀康のような人物の方が徳川家内では立場が強かったような印象が強く受けます。

その中で、秀忠のような温厚で文人肌の人間は少し稀有な存在だったのでしょうか?

 

秀忠が13歳のある日、儒教の講義をしている時に講堂に牛が乱入してきたことがありました。

他の者は慌てて部屋から出て行ったのに対し、秀忠は全く動じず講義を聞き続けていたという逸話が残されています。

 

これと同じような話で、大阪の陣の後に異母弟の徳川義直と共に能劇を鑑賞している時に地震が起きました。

義直はこの時まだ15歳くらいの少年で慌てていましたが、秀忠は「揺れは激しいが屋根や柱が崩れる兆候はないから、下手に動くな。」といって堂々としていたという話が伝わります。

 

このように、秀忠は冷静沈着な男だという印象が伝わります。

信康、秀康、忠吉、忠輝と家康の息子には武勇に優れてはいるが、反面血気盛んで我が強い一面を持っていた人物も多かったようです。

戦乱の時代ならいざ知らず、太平の世ではどうかと家康も考えたのでしょうか?

 

「大奥」などでよく描かれている竹千代(後の家光)、国松(後の忠長)の世継ぎ争いに関しては、ややヒステリーな江と竹千代ラブの福(春日局)に振り回される哀れな二代目という人物で描かれていますが、実際はこの間にも秀忠は下級の女中と密通して保科正之(ほしなまさゆき)を儲けています。

 

最終的に家康が竹千代を後継者に指名することで騒動は一応治まりますが、この時も家康の隠然たる権力を利用するためにわざと道化を演じたのは実は秀忠の方だったのかもしれません。

家康という偉大すぎる男を父に持った秀忠は、こうした胃が痛くなるような処世術に長けたゆえに二代将軍になれたのかもしれませんね。

 

関ヶ原の遅刻と大坂の陣

関ヶ原の戦いは、物心ついたときには秀吉の天下を謳歌する立場にあった秀忠にとっては正真正銘の初陣でした。

この時秀忠は21歳、海道一の弓取りの家の生まれとしては少々遅い年齢かもしれません。

 

秀忠は当初家康と共に上杉征伐に出向こうとしていましたが、小山評定で転身を決定すると、秀忠は元老の榊原康政や大久保忠隣(ただちか)ら譜代の臣を率いて信州上田から進軍することになりました。

この時、家康からは「ついでに上田の真田昌幸を叩いておきなさい。」と命令されていました。

 

関連記事⇒第二次上田合戦と真田信幸vs信繁の兄弟対決!!

 

一般的に、上田の真田を攻めて関ヶ原に遅れたのは秀忠自身の失策だとされていますが、本当の所は秀忠が家康の命令に従ったに過ぎません。

というのは、中部地方の大半は反徳川勢力の巣窟だったので、家康がこの後、福島正則や池田輝政らに美濃の織田秀信(信長の孫)を攻めるよう命じたように、秀忠にも自分とは別行動で反乱分子を潰しておきなさいと命令していたわけです。

 

しかし、戦の経験がない秀忠が戦の達人である真田父子にあたった点、後世の真田人気から徳川を少々悪く書かざるを得ない点から、秀忠は戦下手のダメダメ男子というレッテルが張られざるを得なかったのでしょうか?

 

秀忠が関ケ原に遅れると決まった時、秀忠の順路は悪天候による川の氾濫や行軍に不向きな狭い道を通らざるを得ないなどの悪条件が重なっていました。

家康は当初秀忠軍合流を前提として三成と戦おうとしましたが、秀忠不参加は実は想定外だったようで、忠勝や井伊直政に対し「秀忠が来れなくなったけど、どうしよう!?」と誰よりも慌てていたようです。

 

立派に大役を果たした秀康や忠吉とは違い、自身が大失態を演じたことは秀忠自身が一番気にしていたようです。

 

幕府が開かれると日の本から戦が無くなりますが、豊臣家を滅ぼそうとした大坂の陣がやってきます。

秀忠にとっては汚名返上のラストチャンスです。

 

秀忠が軍を率いて江戸を出立してから、軍は休む間もなく行軍を続けて家康が待つ伏見城まで僅か17日という速さで到着してしまいました。

秀忠軍の将兵は皆が皆疲れ果てて置いてきぼりにされた者も少なくありませんでした。

家康はこれを見て「部下を安息させないのは将たる者のすることではない!」と激怒してしまいました。

 

大坂夏の陣の軍儀式で、家康と秀忠は双方が先陣を務めたいと主張します。

家康にとっては生涯最後の戦い、秀忠にとっても汚名返上と家康に対する最後の意地の見せどころとあって互いに譲りませんでした。

 

家康も仕方なく秀忠に先陣を任せることにしましたが、それでも総攻撃時には家康が先陣を務めてしまいました。

 

関連記事⇒家康に切腹を覚悟させた真田信繁の大坂夏の陣での最期の様子!!

 

結局、秀忠は戦においては汚名返上を果たせないまま家康の死に直面することとなるのです。

戦に関する話はこの二戦のみで、彼が凡将か名将かを論ずるには材料が少なすぎるでしょう。

 

ただ、失敗続きであることから名将とは言い難いのは間違いないようですが・・・。

 

秀忠の功績

戦においてはぱっとしなかった秀忠も、政治に関しては立派に二代目を果たしたと言えるでしょう。

公家諸法度・武家諸法度の制定は紛れもなく秀忠の時代に行われたことですし、家康は将軍就任からすぐに隠居しているので為政者としては秀忠の方がずっと歴が長いことになります。

 

家康の言う通りにしていたといっても、曹操の傀儡だった漢の献帝とは違いきちんと自分の意見を持って行動していたのは間違いないでしょう。

秀忠は兄弟にも寛容で、庶流に落ちてしまった兄・秀康に対しても最高の礼を持って接し、兄弟仲は決して悪くありませんでした。

 

また、秀忠の偏諱を与えられた人物は戦国武将の次世代を数えると数知れません。

例えば、加藤清正の息子・忠広、伊達政宗の庶長子・忠宗、本多忠勝の息子・忠政、忠朝、そして弟の忠吉、忠輝など、秀忠の威光を継ぐ人物は本当に多いです。

 

関連記事⇒伊達政宗と真田信繁(幸村)の大阪の陣での激闘と独眼竜の由来!!

 

秀忠が二代将軍になった時、未だ豊臣の威光を取り戻そうとする大名や様子をうかがっては天下をかすめ取ろうとする大名は数多くいましたが、秀忠の治世においてそうした後継者争いや諸大名による反乱は全く起きていません。

家康死後、福島正則を改易に処したり豊臣恩顧の大名にトドメの一撃を与えたのは紛れもなく秀忠です。

 

関連記事⇒福島正則広島城無断修築で改易!!加藤清正の友の悲しい最期!!

 

鎖国体制も秀忠によって完成されました。

江戸幕府を盤石にしたのは秀忠の功績といって間違いないでしょう。

 

家光はある意味でその遺産を受け継いだにすぎません。

家光に将軍職を譲ってからも、かつての家康よろしくしばらくは二元政治を敷いて家光の輔佐に徹しました。

 

家光は病弱で有名ですが、その反面伊達政宗や立花宗茂といった戦国大名のご老公達に憧れて自身も華美な趣味を嗜好したとの逸話が残り、実は案外放蕩な男だったのかもしれません。

その意味で、実直な人柄の秀忠は家光の将来をとても危惧していたのかもしれませんね。

 

遺骨から分かる徳川秀忠の死因

実は、発掘調査の結果徳川秀忠の遺骨が発見されています。

それによると身長159cmで筋肉質、体中には銃創があちこちに見つかっており、54歳で亡くなったとされる彼の肉体からは老化を感じさせるものはなかったと言われています。

 

銃創からは彼が前線で指揮を執ったという逸話を真実のものとして感じさせます。

彼もまた勇猛果敢な三河武士の血を引いた、立派な戦国武将だったということでしょうか?

 

解剖によって、死因は胃癌であったことが分かっています。

戦国と太平の世の中の狭間で二代将軍という誰よりも気を揉んだであろう彼らしい生涯を物語っていると言えるでしょう。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか?

戦国時代は何も武将や策士のみが活躍して世を切り開いたわけではありません。

 

彼らの中には戦乱の中でまともに生きられないまま生涯を終えたり、戦乱に乗じて失策ばかりを演じた人物もいるでしょう。

そんな中、秀忠は時代の転換期を一身に任されました。

 

戦ではそれほど優秀でない人物でしたが、鎖国・制度を通じて彼無くしては今の日本の姿は有り得ませんでした。

歴史の中には、本当に様々なタイプの人物がいます。

 



Sponsored Link