北条氏直は北条氏政の次男であり、後北条5代当主です。

氏直は暗愚な武将として描かれる事が多いですが、父・氏政とともに関東における北条家の勢力を最大まで広げています。

 

北条氏直は北条家を滅ぼした凡将か?

時代の波にのみこまれた不運な武将か?

 

今回は北条氏直がどういった性格でどういた人物だったのかについてみていきます。

 

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北条氏直とは?

北条氏直は豊臣秀吉による小田原征伐では戦わず降伏したこともあり、戦場を知らぬ御曹司的な存在に思われがちです。

しかし、1577年に15歳で元服してから数々の戦場を経験してきています。

 

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家督を継いだ直後の1581年には叔父である武田勝頼と伊豆の三島で戦い、引き分けています。

 

北条氏直の母はあの名将・武田信玄の娘ですし、父も名将・北条氏康の息子です。

武田信玄と北条氏康の孫ですから血統は最高級のサラブレットですね。

す。

 

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神流川の戦い

その北条氏直が武名を轟かすことになったのが、1582年の神流川の戦いです。

相手は織田信長の配下で四天王のひとりに数えられていた滝川一益。

状況としては滝川一益がかなり不利でした。

 

この1582年は武田家が滅亡し、直後に本能寺の変で織田信長が横死するという年です。

関東管領を名乗っていた滝川一益は、織田家に恭順の意思を示していた北条家に離反され、逃亡者が相次ぐ中で北条に攻め込まれることになります。

 

滝川軍18000に対し北条軍は56000。

そして、このときの北条軍の総大将が北条氏直です。

 

まず、先鋒の北条氏邦が初戦で滝川軍に敗れます。

(北条氏直もここにいて敗走したという説もありますが)

 

すると翌日、北条氏直が20000の兵を率いて滝川軍に攻め込みます。

 

戦上手の滝川一益3000に一時は苦戦を強いられますが、援軍の北条氏規10000が駆けつけてくれたことと、統治わずか3ヶ月ということもあり関東兵が滝川一益の指示に従わず内応するものも出始め、滝川軍を撃退する事に成功します。

 

北条氏直は一時は陣を崩されますが、そこから立て直して滝川一益を破ったという結果になります。

 

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秀吉に降伏

その後、甲斐や上野、信濃の支配を巡って徳川家康とも対立します。

約80日間の対峙後に和解し、上野の支配を認めてもらうことになります。

 

そして徳川家康の娘である督姫を正室に迎えるのです。

 

このように天下に名前が鳴り響く英雄や名将たちと戦い、結果を残している北条氏直は充分に評価に値する人物です。

下野、常陸への版図拡大の野心も強く、その後も盛んに軍事力を高めています。

 

問題は1587年に豊臣秀吉に発布された「関東惣無事令」で大名同士の戦争を禁止されたことでしょう。

これがやがて1589年の名胡桃城奪取事件へとつながり、1590年の小田原征伐という結果を迎えてしまいます。

 

豊臣秀吉がこうも迅速に各地を平定していなければ、北条氏直はさらに版図を拡大し、力をつけていたはずです。

 

小田原城に籠城した北条氏直は豊臣軍22万あまりに完全包囲されて水軍により海上も封鎖、内応者も出始め降伏することになります。

父の北条氏政は最後まで戦い抜くという強行派でしたが、当主である北条氏直は自らの命と引き換えに家臣を守りたいという旨を伝えて降伏しています。

 

黒田官兵衛へ送った刀

この時の降伏の手順は、義父である徳川家康を仲介するはずなのですが、関東八州を受け取る約束を豊臣秀吉としていた徳川家康は仲介を断ったといいます。

そこに豊臣家の使者として黒田官兵衛が訪れます。

 

結局、官兵衛との交渉により小田原城は降伏開城が決定。

黒田官兵衛の強い願いと徳川家康の娘婿という立場もあり、北条氏直は助命され高野山へ追放となります。

 

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この時氏直は、講和をまとめたお礼として、初代当主の北条早雲から伝わる伝家の宝刀「日光一文字の太刀」を黒田官兵衛に贈っています。

 

氏直の徳川家康や滝川一益と渡り合った戦場での活躍ぶりは評価されるべきものだと思います。

しかし父の氏政と同じく、秀吉の力を見誤り小田原城で敗北してしまった事で大きく評価を下げてしまいます。

 

こう考えると氏直は暗愚ではなく、時代の波にのみ込まれて評価を落とした悲劇の武将の1人と言えるのかもしれません。

 



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