福島正則広島城無断修築で改易!!加藤清正の友の悲しい最期!!

福島正則は幼い頃から豊臣秀吉の下で加藤清正と共に武勇に優れた武将として育ちました。

 

豊臣秀吉が羽柴秀吉と名乗っていた時代に、織田家を二分した賤ヶ岳の戦いで一番の戦功を挙げ、他の武将が3000石の加増であるのに正則一人は5000石の加増を受けています。

 

しかし、酒癖が悪く粗暴で横柄な逸話が多く、現代においてあまり良いイメージはもたれていないようです。

 

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酒癖の悪さ

ある時、福島正則は、黒田長政の使いでやってきた母里太兵衛に無理やり酒をすすめ、家宝であった日本号という槍を呑み取られるという失態を犯しています。

 

またある時は、同じく黒田長政の使いでやってきた後藤又兵衛に手痛い言葉のしっぺ返しを食らっています。

 

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またまたある時、泥酔した正則は家臣から受けた諫言が気に入らず、その家臣に切腹を命じ自害させます。

 

しかし翌日に正則は切腹を命じたことを覚えておらず、自害した家臣の首を見て涙を流しながら自分の行いを悔いたと言われます。

 

泥酔して切腹させられた家臣はたまったものじゃありませんよね・・。

 

徳川家康に対して

関ヶ原合戦の後、福島正則は佐久間嘉右衛門という家臣を京都に使いに出します。

 

しかし、関ヶ原の合戦の後ということで徳川家康の家臣 伊奈昭綱が京都で検問を行っていました。

 

佐久間嘉右衛門は通行証を持っていなかったためこの検問を通過できず、強引に通過しようとして、門番の足軽たちに押し戻されたといいます。

 

自分の役目を果たせない情けなさと、足軽に無礼な扱いを受けた悔しさから佐久間嘉右衛門は自害して果てます。

 

これに激怒した正則は嘉右衛門の首を徳川家康に送りつけ、責任者である伊奈昭綱の首を要求します。

 

家康は実際に現場にいた足軽の首を正則に差し出しますが、正則は納得せず、執拗に伊奈昭綱の首を要求し、とうとう家康も忠臣である伊奈昭綱の首を差し出すことになります。

 

徳川家康相手に強硬な主張で、家臣の無念を晴らし、けじめをつけた正則には徳川の臣下に入る気はなく、関ヶ原で家康が勝てたのは自分達、豊臣家臣の働きがあったからだという自尊心があったのでしょう。

 

しかし、家康は正則のそういった感情を読み取り、決して心を許さなかったのだと思います。

 

こうして、徳川家に要注意人物として位置づけられた福島正則は衰退の一途を辿っていくことになります。

 

広島城無断修築

福島正則は関ヶ原合戦の後、広島49万石の領地を得て広島城に入りますが、あるとき大雨による水害で広島城の石垣や櫓が崩れてしまいます。

 

この時、徳川家は家康が亡くなり二代将軍 徳川秀忠の時代になっていて、大名が城を修築する時には幕府の許可を取らなければいけないという武家諸法度という決まりがありました。

 

しかし、正則は幕府に無許可で石垣の修築をしてしまいます。

 

一説には正則を排除するため提出された修築の申請を幕府があえて無視し、痺れを切らした正則が工事を行ったとも言われています。

 

こうなると幕府の思うつぼで、正則は厳しい詮議を受けることになります。

 

幕府は修築箇所の破却を命じますが、正則は修築した箇所とは関係ない部分の石垣を壊し、命令に素直に従わなかったとも言われています。

 

この一連の行動に激怒した徳川秀忠は福島正則を広島49万石から川中島4万5000石に減封。

 

川中島に移ってからは、嫡男の死もあり領地の一部を幕府に返上。

 

福島正則は64歳でこの世を去りますが、最期は幕府の仕打ちの屈辱に耐えかねての切腹であったとも言われてます。

 

正則の死後は領民も正則の事を呼び捨てにするなど、領主としての信頼を得ることはできていなかったようです。

 

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哀しい名言

「我は弓である。乱世では役に立つが、平和な世となり川中島の土蔵に入れられた。」

 

Masanori_Fukushima

 

「名将言行録」という後世の書物に書いてある正則の言葉ですが、この言葉が表すように戦のある世にこそ福島正則の生きる世界があったようです。

 

豊臣秀吉の下で勇名を馳せた稀代の猛将の最期は寂しいものとなりました。

 

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