矢沢家と真田家は同郷にありながら敵対していた勢力ですが、真田頼昌の三男である真田頼綱が矢沢家の養子に入り家督を継いでからは、真田家の一門衆として活躍していくことになります。

 

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矢沢三十郎

この矢沢頼綱の嫡男が矢沢三十郎です。

長篠の戦い以降、真田家の当主となる真田昌幸のいとこという関係になります。

 

1582年に主である武田家が滅び、その後の支配者であった織田信長も本能寺の変で横死したことで、空白となった信濃・甲斐・上野の奪い合いが近隣の勢力同士で行われます。

 

これは天正壬午の乱と呼ばれるもので、真田家、上杉家、北条家、徳川家が入り乱れて戦いました。

この時、矢沢三十郎は北条家との戦いで、父と共に沼田城を守りぬき、加増されています。

 

後に沼田城を巡り、徳川家と揉めた真田家は徳川家を離反し、上杉家と結びます。

当時は同盟を結ぶ場合、人質として子弟を預けるという風習がありました。

 

上杉家と比べると勢力の小さな小領主の真田家が同盟を結ぶために、真田家当主の真田昌幸は息子を人質として差し出します。

この人質が関ヶ原の戦いで獅子奮迅の働きをみせる真田信繁(幸村)です。

 

1585年、人質として越後に向かった真田信繁はこの時、15歳(18歳とも言われています)でした。

この時、昌幸は護衛として数十名を真田信繁に付け、その中にいたのが矢沢三十郎でした。

 

おそらくお供衆の筆頭だったことでしょう。

矢沢三十郎はこの時32歳ですから、実戦の経験豊かな立派な武将であり、真田家の柱石を担う人物です。

 

北条家や徳川家との全面戦争が迫っているなかで嫡男ではない次男・真田信繁の護衛だけで越後に向かったとは到底思えません。

 

上田城の戦いでの活躍

同年に北条家と徳川家の連合軍が真田家の領土に襲い掛かります。

当主の真田昌幸は本城である上田城に籠城し、支城の戸石城には嫡男の真田信幸を入れます。

 

さらに上田城から6㎞ほど離れていたもう一つの支城、矢沢城には上杉家の援軍800名を率いた矢沢三十郎が入ります。

おそらく矢沢三十郎が越後に赴いたのは、こういった時のために上杉と誼を通じておくという狙いもあったのではないでしょうか?

 

こうして世にいう「第一次上田合戦」が幕を開けます。

上田城を目指す徳川軍は7000あまり。

 

対する真田軍は上杉家の援軍を含めても3000に足らなかったと言われています。

しかもその3000を3つの城に分けています。

 

城攻めに向かうのは徳川家の重鎮たち。

徳川十六神将から鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉の3人が出陣しています。

 

徳川家四天王ほどではないにしても戦上手な面々です。

特に大久保忠世は決死の夜襲をかけてあの武田信玄を唸らせたほどの名将です。

 

小諸城から依田源七郎の兵1500が出陣し、上杉家の援軍800が籠城する矢沢城を攻めますが、矢沢三十郎と上杉勢はこれを返り討ちにします。

北条家の大軍相手に一歩も引けを取らずに戦ってきた矢沢三十郎にとっては、取るに足らない相手だったかもしれません。

 

そもそも真田家は、少数で大軍を苦しめるゲリラ戦を得意としています。

また、敵をあえて誘い入れて叩く戦法も巧みでした。

 

徳川軍の主力は上田城の二の丸までは攻略しますが、ここで迎撃され、退却するところを戸石城と矢沢城の兵に追撃されます。

神川で厳しい追撃にあって亡くなった徳川軍の兵は1300にものぼると言われています。

 

後年、上田城の戦いに参加した大久保甚右衛門が、真田家当主の真田信幸にこの戦について語り合ったという伝承があります。

 

ある時、大久保が

 

『上田城を撤退する時に追撃され苦労した。あの時の大長刀を振り回す音が迫って身がすくみました。』

『あの時追撃されていたのは信幸殿でしたか。』

 

と真田信幸の追撃の苛烈さについて称賛します。

 

すると当の真田信幸は、『自分は追撃戦は得意でない。その追撃のをしたのは矢沢但馬守(矢沢三十郎)に違いない』と否定したそうです。

 

実際に三十郎派は上田城の戦いの本戦には参加していないという説もありますが、実際のところはどうなんでしょうか?

父親同様に真田家の筆頭家老として戦場でその異名を轟かせた矢沢三十郎の逸話です。

 



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