豊臣秀吉の生涯を年表で分りやすく&詳しく解説!
農民出身でありながら織田信長の跡を継いで天下統一を果たした豊臣秀吉。
あなたは秀吉が何歳の時に信長に仕えて、何歳で天下を取ったのか知っていますか?
今回は出世の足跡を辿るために、秀吉の生涯を年表で分りやすくまとめました。
小学生にも分かりやすいように詳細にまとめたので参考にしてください。
豊臣秀吉の生涯年表
年代 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1537年 | 1歳 | 愛知県の中村で生まれる(名前は木下藤吉郎) |
1554年 | 17歳 | 織田信長の家臣になる |
1561年 | 25歳 | ねね(高台院)と結婚 |
1565年 | 29歳 | この頃には織田家の有力武将になっていた |
1566年 | 30歳 | 墨俣一夜城の築城に成功。蜂須賀小六が家臣になる |
1567年 | 31歳 | 竹中半兵衛が家臣に加わる |
1569年 | 33歳 | 毛利元就の要請を受けた信長の命で但馬(兵庫)へ出陣 |
1570年 | 34歳 | 金ヶ崎の戦いで殿(しんがり)を務めて信長の信頼を得る |
1572年 | 35歳 | 丹羽長秀と柴田勝家の一字をもらって羽柴秀吉と改名 |
1573年 | 37歳 | 小谷城を攻め落として長浜城主になる |
この頃、石田三成を家臣に加える | ||
1575年 | 39歳 | 長篠の戦いに参戦して手柄を挙げる |
1577年 | 41歳 | 上杉謙信と戦う柴田勝家の陣から無断で帰国。信長激怒 |
信貴山城の戦いで功績を上げて信長の信頼を取り返す | ||
中国の毛利攻めの軍団長に任命される | ||
黒田官兵衛から姫路城を譲り受けて本拠地とする | ||
1579年 | 43歳 | 宇喜多直家を服属させるも荒木村重が離反(有岡城の戦い) |
1580年 | 44歳 | 軍師の竹中半兵衛が三木城攻めの最中に亡くなる |
1581年 | 45歳 | 鳥取城の戦いで吉川経家を降す |
1582年 | 46歳 | 備中高松城を水攻めで降伏させる |
本能寺の変が起こり信長が自害 | ||
山崎の戦いで明智光秀を破る | ||
清州会議で信忠の子供を当主にして後見人になる | ||
1583年 | 47歳 | 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り滅亡させる |
1584年 | 48歳 | 小牧・長久手の戦いで徳川家康と対立(引き分けに終わる) |
1585年 | 49歳 | 関白になる |
1587年 | 51歳 | 聚楽第をつくる |
1588年 | 52歳 | 刀狩り令、海賊停止例を発布 |
1589年 | 53歳 | 淀殿との間に鶴松が生まれる→2年後に死去 |
1590年 | 54歳 | 伊達政宗を従え、北条氏を滅ぼす。天下統一を達成 |
1591年 | 55歳 | 関白を甥の豊臣秀次に譲って太閤となる |
文禄の役 | ||
1593年 | 57歳 | 淀殿との間に豊臣秀頼が誕生 |
1595年 | 59歳 | 謀反の疑いがあるとして豊臣秀次を自害させる |
1596年 | 60歳 | 慶長の役 |
1598年 | 62歳 | 伏見城で亡くなる |
【豊臣秀吉の詳細記事はこちら】
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織田信長の家臣時代の羽柴秀吉(木下藤吉郎)ってどうだったの?
豊臣秀吉は織田信長の家臣として順調に出世していきます。
17歳で信長に仕えて20代の後半には織田家の有力武将となっているので、身分の低い百姓の出身にしては大出世といえるのではないでしょうか?
蜂須賀正勝や竹中半兵衛といった有能な家臣を配下にしたこともあり、金ヶ崎の戦いや小谷城の戦いで順調に手柄を挙げていきます。
上杉謙信と戦うために柴田勝家の配下として能登に向かった際は勝家と喧嘩して無断で長浜に帰還します。
これには信長も激怒しますが、すぐに松永久秀討伐の軍に加えられていることを考えると、信長が秀吉をかわいがっていたことが分かります。
(無断で帰陣したことは明らかな軍令違反なので、本当なら首をはねられてもおかしくない・・・。)
しかもその後には毛利討伐軍の総大将に任命されているので、信長にとって秀吉は無くてはならない家臣だったようです。
中国攻めでも三木城や鳥取城、備中高松城など、難攻不落と言われた城を次々に開城させているので、城攻めの上手さは織田家の中でもトップクラスだったのではないでしょうか?
信長亡き後に天下人となった手腕
信長が本能寺の変で亡くなると、ここからの秀吉の行動は神がかったものがあります。
すぐに明智光秀を討って清須会議の主導権を握ると、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼします。
その後は織田信長の子供である信雄と組んだ徳川家康と小牧長久手の戦いで対立しますが、家康の知らないところで信雄と和睦して引き分けに持ち込みます。
ここから約6年で四国、九州、関東(北条氏)、奥州を平定しているので、秀吉の天下統一がいかにすばやく達成されたかが分かります。
晩年は57歳の時に生まれた秀頼に跡を継がせるため、甥の秀次を自害させるなど傍若無人なふるまいが目立った秀吉。
秀次を自害させたことで秀吉と秀頼の間を繋ぐ人物がいなくなり、徳川家康に実権を奪われることになってしまいます。
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