豊臣秀吉の天下統一に貢献した武将の中には、秀吉の正室・寧々(ねい・ねね)が育てた小姓達が数多くいました。
これといって強力な後ろ盾がなかった秀吉にとっては、彼らは一族の息子も同然でした。
では、寧々が育てた武将で一番出世したのは誰だったのでしょうか?
そして1番凡将との呼び声が高いのは誰なのでしょうか?
1番の凡将は小早川秀秋
改めて、寧(ねね)が育てた武将で一番出世した人と落ちぶれた人は誰なのでしょう?
まず、落ちぶれた武将は間違いなく小早川秀秋だと思います。
一時は秀吉の養子として関白にまでなりかけた小早川秀秋ですが、若くして酒を覚えたために寧(ねね)も頭を抱えていました。
秀秋は元々寧(ねね)の甥にあたり、長年子の無かった秀吉夫婦に後継者として引き取られました。
しかし、秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれるとその立場は宙ぶらりんになり、秀秋は毛利の支流小早川家の跡取りとされてしまいます。
豊臣一族ということで朝鮮出兵の総大将に任命されますが、決して戦上手なわけではなく、一度帰国した際に大きく減封されてしまいます。
秀吉が死ぬと、秀秋は石田三成と徳川家康のどちらに付くかを天秤にかけます。
そして関ケ原の戦いでは、西軍に付いておきながら土壇場で東軍に寝返るという行動を起こします。
この結果、一時的には岡山55万国を手に入れます。
しかしそれから僅か2年後、21歳の若さで病死してしまいます。
アルコール依存症だったと言われており、彼の死をもって小早川家は断絶することとなりました。
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また、一時は猛将として名を馳せた加藤清正と福島正則も豊臣家への忠誠を崩さなかったために徳川幕府によって警戒され、子孫に渡るまで不遇でした。
寧が育てた名将は誰?
しかし、そんな中で例外的に出世したのは黒田官兵衛の息子、黒田長政でした。
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信長が存命だった頃、父・官兵衛が裏切りによって幽閉された際に処刑を命じられた幼少の長政は竹中半兵衛の機転によって秀吉夫婦の元に預けられたことで命を長らえることが出来ました。
彼はその後父に従って数々の戦に参加しましたが、やや武断派の性格だった長政は官兵衛から
「将というのは戦で刀を振るうばかりではだめだ。それにお前は考えるのが遅すぎる。果断即決でなければ機を損なうのでよくよく注意するべきだ。」
と諫言されていました。
その後、隠居した父から家督を譲られて当主となった長政は、秀吉の死後権力を握り始めた家康に近づきます。
関ケ原では先述した小早川秀秋らに裏切りを誘発させる工作をするなどして勝利のきっかけを作りました。
関ケ原の勝利後は筑前の福岡藩を与えられ、大阪の陣では家臣に大阪の陣の虐殺図を描かせるなどして戦国の終わりを見届けました。
彼が亡くなったのは1623年(元和9年)の事でした。
その後福岡藩は長政死後にお家騒動が起こるものの、廃藩置県までほぼ黒田家が福岡に君臨し続けました。
豊臣恩顧の大名が次々と取り潰されていく中で、黒田家は最後まで無事に生き残り続けることが出来たのです。
このことから、寧々(ねね)が育てた武将の中で、一番出世したのは後世まで血脈を保つことに成功した黒田長政ではないかと思います。