政治の実権が天皇から武家に移っていくのは厳密には平清盛らの平氏政権からですが、日本は武家が支配するのだという概念を全国に普遍化させていったのは鎌倉幕府から。

そして、その鎌倉幕府を開いたのが源頼朝です。

 

武家政権を開いたと聞くと、何だか初めから強力な力を持っていたかのような印象を受けますが、実はそんなことはありません。

今回は鎌倉、室町、江戸と続いた武家政権の系統の開祖となった源頼朝と政権樹立までの葛藤について解説します。

 

そして、頼朝といえば弟・義経との確執も気になるところ。

この2人がどうして争うことになったのかも詳しくみていきましょう。

 

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源頼朝の概略

 

 

名前 源頼朝(みなもとのよりとも)
生没年 1147年~1199年
官職 征夷大将軍
特徴 策士、嫉妬深い、妻(政子)には頭が上がらない

 

源頼朝は1144年、河内源氏の棟梁である源義朝の3男として生まれました。

3男ではありましたが兄2人の母が卑賤の生まれであったことから嫡子として扱われ、若い頃から義朝の戦に同行しています。

そして、平治の乱で父が平清盛に敗れると、頼朝も嫡子として死刑が確定するはずでした。

 

しかし、清盛の継母・池禅尼によって助けられ伊豆に流罪となります。

流罪先では親の反対を押し切ってきた北条政子と結婚し、やがて北条家等の多くの武士の協力を得て平氏政権に対し挙兵します。

 

当初は寡兵であったことから苦戦しますが、鎌倉を平定し関東武士を味方につけたことで基盤を築き、清盛の死と相まって徐々に形勢を逆転させていきます。

その後は中央を支配した源義仲を討ち、後白河法皇から鎌倉政権を正当なものだと認められて平家討伐を請け負い、1185年壇ノ浦の戦いでついに平家を滅ぼします。

 

その後は親族や朝廷らの反逆を恐れて義経、奥州藤原氏、範頼ら不安分子を全て滅ぼし政権を安定させ、1192年朝廷から征夷大将軍に任じられて政権を開くことを許可されます。

源頼朝ってどんな性格だった?

政権を打ち建てた人物として立派なはずの頼朝なのですが、彼個人の人物像を伝えるようなエピソードは『吾妻鏡』を中心に誉めそやすものが多く、いまいちリアリティに欠けています。

そのため、頼朝の性格を判断するのは難しいです。

 

しかし平清盛との対比として頼朝は、一族でも手加減しない冷徹なリアリストだったと言われています。

それは頼朝も敵が平氏の他に同じ源氏であったこと、後述するように弟の範頼、義経でも疑わしきは滅ぼすという精神からきているのでしょう。

 

「一騎当千」という言葉があるのですが、この言葉は本来頼朝を指す言葉でした。

頼朝は「天の時、地の利、人の和」全てを手にした男で1人で1000人を相手にできるような強さであったということからこう言われています。

 

では家庭人としての頼朝はどうだったのでしょうか?

妻の政子とは当時の慣例を破った恋愛結婚であり、政子は許嫁がいたにも関わらず頼朝を一途に愛しついに舅・北条時政を納得させ味方につけてしまいました。

 

ところが、頼朝は同じく伊豆にいた頃から亀の前という愛妾を囲い政子に内緒で通うようになります。

激烈な政子の性格とは違い、亀の前はとても柔和な性格だったので頼朝にとっても心休まる存在だったのでしょう。

 

しかし政子は亀の前の他にも何人かいた頼朝の側室を全て追い払ってしまったとされています。

家庭ではいまいち権力のないお父さんだったのでしょうか?

 

他には征夷大将軍となった翌年、頼朝はセレモニーの一環として富士の鷹狩りを行います。

この時に嫡男の頼家が初めて鹿を討ちました。

これは頼家を頼朝の跡取りであると神から認めてもらい、世間にも公に公開するいい機会だったのです。

 

頼朝にとってはこういう機会を積極的に与え後継者争いを防ぐ効果と、頼家の前途を明るくする意味もあったのですが、政子はいまいち頼家が好きじゃなかったのか?

「武家の棟梁なんだからそれくらいは当たり前だ」と言って頼家を追い返してしまいました。

 

頼朝が愛妾を抱えていた原因は、こうした部分から垣間見える政子と頼朝の政治上の価値観の違いからなのかもしれません。

頼朝の残した功績とは?

頼朝が鎌倉幕府として残した功績は、実はその根拠を朝廷から受けた官位に依拠しています。

そのため、鎌倉幕府は決して朝廷の権威から独立した別個の政治機構というわけではなかったのです。

 

頼朝は征夷大将軍となる以前に一族の結束を中心に独立意識の強かった関東武士団を領地の保障と武家の棟梁という平氏政権とは違う形でまとめ政権基盤としたのです。

具体的には、頼朝は朝廷からもらった官職を根拠に、武士達に守護職や地頭といった様々な官職、領地を与えて頼朝に従うようにしました。

 

ではここで問題ですが、朝廷からもらった官職で最も重要なのは何なのでしょう?

 

様々ありますが、最も有名なのは征夷大将軍です。

但し、征夷大将軍だけでは決して政権を開くことはできません。

 

その他の官職は土地の支配権や官職の任命権を委譲するものでありました。

頼朝は挙兵した段階から徐々にこうした官職を加えられて他の追随を許さない勢力になっていきました。

 

実際のところは征夷大将軍はさほど重要ではなかったようですが、源氏の祖先が代々名乗ってきた「大将軍」という肩書は武家の棟梁を名乗る上では重要なイデオロギーの問題だったとされています。

 

征夷大将軍が武家政権のトップと同義語になっていくのは源氏将軍が絶えて執権の時代になってからですが、頼朝が築こうとした武家棟梁のアイデンティティーは室町・江戸と受け継がれていき、後の政権の参考になったといってもいいでしょう。

 

こうした武家政権のアイデンティティーを築いた頼朝は、後の武士から非常に評価されており、特に徳川家康は『吾妻鏡』を愛読書として読んでいたとされています。

しかし中には朝廷を蔑ろにした人物として否定的な意見も出ていたようで、時代の先駆者ゆえの二面的評価も垣間見えます。

 

頼朝存命時、「鎌倉殿」及びその政治機構はあくまで関東武士団の政治機構であったため、決して日本全国に支配が行き届いていたわけではありませんでした。

そのため、頼朝の存在は草創期らしい一種の個人的カリスマに頼ったものでした。そのため、頼朝はあくまで「将軍による武家政権」の開祖であるという見方をした方がより正確だと思われます。

 

義経と対立した原因

「判官びいき」という言葉は、きっと多くの人が知っていると思います。

判官とは源義経が後白河法皇から受けた検非違使(けびいし)という官職の通称が判官だったことに由来するもの。

冷徹な政治家である頼朝とは違い、武芸や戦略に優れ熱い心を持った武将の義経は今でも人気を集めてやみません。

 

義経と頼朝は黄瀬川で涙の対面を果たして以来、頼朝は本国にて武士の統率と領国経営、義経は前線にて木曾義仲や平家討伐にて貢献します。

一ノ谷の奇襲、それに壇ノ浦の八艘飛びは義経個人の功績であると言われていますが、義経はカリスマゆえに純真無垢で頼朝が考えていた政治構想を逸脱する行為が頻繁に見られました。

 

その最たる例が後白河法皇から官位を受けたことです。

後白河法皇は腹黒さで知られている人物で、あわよくば頼朝の権威を削ごうとも考えていたとされています。

武功はあれど関東武士から白い目で見られている義経を手なずけることで、頼朝に対する対抗馬としてあてがおうとしていたのだとされています。

 

義経はそれに平時忠の娘を妻としてもらっており、武家による新政権の流れをぶった切るこの動きに頼朝は激怒です。

それに実は頼朝、平家擁する安徳天皇が持っている三種の神器を確保することを絶対条件として命じていましたが、義経は勇敢であるゆえに八艘飛びで平氏を追い込んでしまい安徳天皇はご存知の通り海の底の都へ・・・。

そして三種の神器のうち草薙剣も海の底に。

 

事によっては平氏を滅ぼすことすら望んでいなかったとされる頼朝ですが、大事な大事な駒を戦に夢中で回収し損ねた事にさらに激怒。

さらに義経はかねてから東国武士とはそりが合わない代わりに朝廷と関係がいい西国武士とは馬が合い、東国武士の立場を脅かすほどの活躍を見せてしまいます。

義経は関東武士からすれば規律を守らない問題児だったのです。

 

どこでもいますよね、有能ゆえに純真で規律とか全く度外視な人。義経も生まれる時代を間違えたのでしょうか?

 

それでも実の弟である義経に最後のチャンスを与えます。

味方でありながらずっと違反ばかりする叔父の行家討伐に義経も参加するように命令しますが、義経も既に頼朝に対抗する意思を持っていたので、病のふりをして断ります。

 

こうして頼朝は義経を謀反人と決めつけ、ついに討伐命令を朝廷に発行させ殺害に踏み切るのです。

 

頼朝の死因

『吾妻鏡』では頼朝の死因は落馬だと記しています。

しかし落馬ごときで人が死ぬかというのが普通の人の考えですよね?

正確には、頼朝は落馬して17日後に亡くなっているので、このタイムラグで脳内出血などの別の症状が出て突然死となッタノかもしれません?

 

他には『猪隈関白記』では「飲水の病」と書いており、この解釈も様々あります。

最も有名なのが、糖尿病からくる合併症。

 

藤原道長は長年の贅沢暮らしで糖尿病を発症し飲水が絶えなかったと言われていますが、頼朝の場合は糖尿病の症状である視力低下がみられています。

しかし「飲水の病」は他に本当に川で溺れてしまい水を飲みすぎた溺死であるという説もあります。

 

その他にも恨みを買って暗殺された、執権北条氏の権力志向を受けて用済みになったので殺された等の俗説もありますが、これらは結果を知っている後世の人間だから言えることなので、あまり信ぴょう性はないように思います。

 

頼朝は親族を散々殺しているためそれに悩まされ、挙句病んだとする説もありますが、現段階ではこれだと断定するのは困難なようです。

 

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