豊臣秀吉と豊臣家家臣の逸話まとめ!!
豊臣秀吉の家臣には魅力的な武将が沢山います。
私の大好きな黒田官兵衛や大谷吉継も秀吉の下で活躍した武将の1人です。
そんな訳で今回は、豊臣秀吉と家臣団のに関する記事をまとめてみました。
豊臣秀吉
『鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス』という歌で表現される豊臣秀吉の性格。
当時日本にいた宣教師が秀吉の外見や性格について記した記録があるのですが、宣教師から見た秀吉の評価は散々なものでした。
詳細記事⇒豊臣秀吉の指は6本あった!!天下人の性格と意外な死因!!
石田三成
豊臣秀吉の右腕として絶大な権力を誇った石田三成。
その三成が関ヶ原の合戦の時に最も頼りにしたのが大谷吉継という友でした。
下記の記事では大谷吉継との友情の逸話と、三成の墓所の発掘調査で明らかになった三成の顔について書いています。
島左近
石田三成に過ぎたるものと言われた島左近。
戦上手として名前が知られていた島左近を、三成は自分の知行4000石の半分を出して家臣に迎えたと言われています。
その期待に応えるように島左近は三成に終生尽くし、関ヶ原の戦いで奮戦します。
詳細記事⇒島左近は石田三成にはもったいない家臣?
大谷吉継
石田三成の盟友・大谷吉継。
吉継は関ヶ原の合戦の頃には、病に侵され目がほとんど見えなくなっていました。
そんな状況でも家臣に担がせた輿(こし)に乗って関ヶ原に出陣。
藤堂高虎らの軍勢と一進一退の攻防を繰り返します。
詳細記事⇒大谷吉継の病気と藤堂高虎が建てた関ヶ原の墓所!!
目が見えない状態で関ヶ原の戦いに参戦した大谷吉継は、平塚為広という武将に采配を託します。
平塚為広は吉継との友情に応えるため、戦場で獅子奮迅の働きをします。
しかし、小早川秀秋の裏切りに呼応した赤座直保や朽木元綱の攻撃によって大谷隊は総崩れになってしまいます。
詳細記事⇒真田信繁(幸村)に娘を嫁がせた名将・大谷吉継の最期!!
竹中半兵衛
秀吉の天下取りを支えた2人の軍師・竹中半兵衛と黒田官兵衛。
その中でも信長存命中は竹中半兵衛の存在が秀吉にとっては大きく影響していました。
そして、半兵衛が亡くなってからは黒田官兵衛が秀吉を天下人へと押し上げる訳ですが、この2人の軍師は武将として全く違ったタイプだったようです。
黒田官兵衛
備中高松城の水攻めや四国・九州征伐に大きな役割を果たしたのが黒田官兵衛。
官兵衛は頭が良すぎたため、晩年の秀吉からは遠ざけられていたという話もありますが、官兵衛自身はとても穏やかな気持ちでこの世を去ったのではないでしょうか?
それは官兵衛の辞世の句と呼ばれる歌から読み取ることができます。
詳細記事⇒黒田官兵衛(如水)の最期と辞世の句!
福島正則
賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、七本槍の筆頭に選ばれた福島正則。
しかし、プライドの高さと傲慢な性格が災いして関ヶ原の合戦で手に入れた広島城から国替えを命じられることになります。
移動先の川中島で待っていたのは正則の寂しい最期でした。
加藤清正
福島正則と並ぶ秀吉子飼いの武将で、熊本城を築城した事でも有名な加藤清正。
清正が家臣にかけた言葉には、相手のプライドを傷つけないための優しさがあります。
詳細記事⇒加藤清正の家臣に対する名言!!
豊臣秀次
豊臣秀吉の養子となり関白になった秀次。
しかし、秀吉に実子・秀頼が生まれると、徐々に邪魔者扱いされるようになっていきます。
そして最終的に謀反の疑いをかけられて高野山に追放。
秀次が高野山で自害すると、一族郎党も三条河原で粛清されます。
詳細記事⇒豊臣秀次が三条河原で切腹させられた理由!側室30人の悲劇とは?
千利休
秀吉の茶頭と務め、諸大名からも慕われた千利休。
利休はなぜ秀吉の怒りを買い、切腹する事になってしまったのでしょうか?
その原因とは?
詳細記事⇒千利休が切腹となった原因!!秀吉が激怒した理由とは?
長宗我部元親
織田信長の同盟者として四国統一を目前にした長宗我部元親に待っていたのは『土佐一国しか領有を認めない』という理不尽な信長の一言でした。
元親は泣く泣く信長の指示に従う事にしますが、この一件が明智光秀が本能寺の変を起こすの引き金になったのではという説が取り上げられています。
詳細記事⇒長宗我部元親が原因!?明智光秀が本能寺の変を起こした理由!!
九州の戦国大名の逸話
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