九州の名門・大友家を支えた武将・立花道雪。
大友宗麟に仕え、臼杵鑑速・吉弘鑑理らと共に大友三家老と呼ばれています。
立花道雪は『雷神』と呼ばれることもある武将ですが、いったいなぜ雷神なのか?
今回はその辺りも含めて、雷神と恐れられた名将・立花道雪を紹介していきたいと思います。
「雷神」として恐れられた理由
立花道雪が雷神と呼ばれる理由、それは雷(雷神)を刀で斬ったとされることにあります。
若い頃、立花道雪が木陰で涼みなが眠っていると、夕立で雷が涼んでいた木に雷が落ちてきました。
この時、道雪はとっさに千鳥という太刀を抜き、落ちてきた雷を斬ったとされています。
しかし、この時の雷の影響で道雪の下半身不随に。
それでも立花道雪は戦場に出続け、普通に歩行できる者たちよりも優れた功績を残しています。
1567年に行われた秋月氏との戦い(瓜生野の戦い)では自ら太刀を振るって武者7人を打ち取り、さらに馬に乗り敵陣の中を突撃したという記録があります。
1568年の立花鑑載討伐した際の立花山の戦いでは、道雪自ら槍を取り家臣と共に戦ったというエピソードも残っています。
このように雷に打たれてなおこのような活躍をすることで、九州地方の各大名から「雷神」や「鬼立花」として恐れられていました。
(雷を斬った刀・千鳥を道雪は後に雷切と命名します。)
毛利家との戦いでも負けない強さ
北九州を領していた大友家は、中国地方の覇者毛利家との領地が関門海峡を隔てるだけの至近距離にあり、毛利家と絶えることがない激しい争いが続いていました。
1569年龍造寺討伐に大友軍は動き出し、龍造寺の主要な城である勢福寺城を陥落させると、救援にきた龍造寺隆信も撃退します。
この時、自国の危機を感じた隆信は毛利家に救援を要請。
快諾した毛利家は吉川元春と小早川隆景に出兵を命じ、筑前へと侵攻します。
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毛利家迎撃のため大友家は龍造寺と和睦し軍勢を筑前に向けます。
しかし筑前に侵攻した毛利軍は立花山城を陥落させてしまったのです。
そのため大友軍は博多に集結し、翌日立花道雪と田尻鑑種は毛利軍に攻撃を仕掛けることになります。
この戦いは道雪も自ら槍を手に取り敵を討ち取らねばならないほどの激戦でしたが、なんとかこの戦いに勝利。
しかし、この戦いで毛利軍を筑前から駆逐することはできず、その後4度の激戦を繰り広げる事になります。
4度目に行われた多々良浜の戦いでは道雪自ら考案した「早込め」(一発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる二段発射する戦法)を自ら先頭に立ち実践します。
この戦法は大いに効果をあげ、早込め戦法で混乱した敵陣を槍隊が突撃します。
その後道雪自ら騎乗隊を率いて敵陣を突撃し小早川隆景の陣を撃破することに成功しますが、毛利軍全体を退かせることはできず、その後も長い対陣が続きます。
しかし中国地方での毛利家を取り巻く勢力の活発化により、筑前の戦線を維持できなくなった毛利軍は撤退し、毛利家との長い争いは終結します。
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遺言がすごい・・・立花道雪の最期の様子!
1578年に島津軍と大友軍の間で行われた耳川の戦い。
この戦いでは数で優っていた大友家が大敗北を喫します。
この戦い以降、急速に大友家は弱まり家臣の中から離反者が増えていきます。
しかし道雪は主家を裏切ることなく、大友家の守護神として戦いに明け暮れます。
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津軍に敗れ打ち取られると、大友家に臣従していた諸大名が一斉に離反し大友家に矛先を向けてきます。
1584年、大友義統の出兵要請を受けた立花道雪と高橋紹運は秋月などの諸連合軍が守る筑後の猫尾城へ出陣。
秋月氏などの諸連合軍を撃破します。
さらに戦線を拡大させる道雪は龍造寺家の山下城や兼松城、山崎城、鷹尾城など数々の城を落とします。
龍造寺政家率いる肥前、筑前、豊前連合軍3万人が立花道雪と高橋紹運が率いる軍勢に襲い掛かって来た際も、約1万の軍勢で戦術や陣形を駆使し、なんとか連合軍を打ち破ることに成功しています。
そんな戦に明け暮れた立花道雪でしたが、筑後柳川城攻略中に病で亡くなります。
この時、息子(養子)の立花宗茂には『自分が亡くなったら甲冑を着せて柳川の方向に向けて埋葬せよ』と遺言したとされています。
しかし、さすがの宗茂も義父の遺体を敵地に埋葬する訳にはいきません。
そのため、道雪は立花山城の麓にある梅岳寺に葬られています。
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立花道雪、享年73歳。
戦陣に明け暮れた雷神はこうして戦陣の日々から解放される事になります。