幕末の長州藩を動かした毛利家家臣の逸話まとめ!!
幕末の長州藩は吉田松陰の松下村塾で学んだ塾生が政治に大きな影響力を持つようになっていました。
高杉晋作や久坂玄瑞がその代表ですが、長州藩は藩内にも優秀な人材が大勢いました。
これは藩主であった毛利敬親が政治の大部分を家臣に委ね、あまり反対する事がなかったという風土から生まれたものです。
松下村塾の塾生の話題は『松下村塾の塾生』ページにまとめてあるので、このページでは塾生以外の長州藩の人物を取り上げてみたいと思います。
幕末の長州藩の状況
幕末の長州藩は、外国との戦や内部の権力抗争で非常に不安定な状況にありました。
京都を追放されたり、四カ国の外国船が下関を砲撃したり、禁門の変で敗走するなど苦難の連続。
この危機的な状況の中、藩内では椋梨藤太が政治の実権を握ります。
椋梨は幕府に恭順するという考え方だったため、これに反対する多くの志士を弾圧。
この状況に立ち上がったのが幕末の風雲児・高杉晋作でした。
毛利敬親
家臣から提案された事に対して『そうせい』と答えることがほとんどだったと言われる毛利敬親。
政治を家臣に委任するというスタンスは名君と凡将というように評価が分かれるところでもあります。
実際、毛利敬親は藩主としてはどういった人物だったのでしょうか?
毛利元徳
毛利敬親の跡を継ぎ、長州藩の藩主となります。
年齢が近かった事もあり高杉晋作ら松下村塾の塾生たちとも深く関わり、明治維新後は銀行の設立などに尽力しています。
椋梨藤太
長州藩の中で周布政之助との権力争いを繰り返した椋梨藤太。
一度は藩内の権力を握りますが、高杉晋作の決起によって状況を一転させられてしまします。
やがて捕らえられ、刑の執行を受けることになった椋梨。
その最期は、全ての責任を自分1人で背負うという覚悟に満ち溢れていました。
詳細記事⇒長州藩の行く末を案じた椋梨藤太の最期!!
周布政之助
吉田松陰や松下村塾の塾生達に常に目をかけ、サポートし続けた周布政之助。
酔った勢いで獄に繋がれた高杉晋作の元に出向き、激励の言葉を送ったというエピソードもあります。
そんな周布も椋梨藤太との権力争いに敗れ、最期の時を向かえます。
詳細記事⇒吉田松陰の良き理解者周布政之助の最期!!
桂小五郎
明治維新の三傑に数えられる桂小五郎(木戸孝允)。
松下村塾の塾生ではありませんが松陰とは深い親交があり、常に松陰の事を気にかけていました。
萩市内には桂小五郎が青春時代を過ごした家が現在も残っています。
大村益次郎
高杉晋作亡き後、長州藩の軍事面での要となったのが大村益次郎でした。
大村は戊辰戦争でその軍略の才を存分に発揮し、戊辰戦争後には亡くなった人たちを弔うために東京招魂社を創建します。
詳細記事⇒軍略は高杉晋作以上?大村益次郎の銅像が靖国神社にある理由。
来島又兵衛
八月十八日の政変の後、会津藩や薩摩藩を討つべきだと声高に主張した来島又兵衛は軍勢を率いて京都に上ります。
御所に弓を引けば朝敵となる状況だったため、久坂玄瑞らは必死で又兵衛の行軍を止めようとしますが、又兵衛は制止を振り切り御所に攻め込みます。
最初は優勢に戦を進めていた長州勢ですが、西郷隆盛の登場で形勢がいっきに逆転する事になります。
長井雅楽
長井雅楽の唱えた航海遠略策は攘夷思想が蔓延する長州藩にあって、とても現実的な方針を打ち出したものでした。
しかし、吉田松陰の事に関して松下村塾の塾生から恨みを買っていた長井雅楽は、久坂玄瑞らの猛反発に合って失脚してしまいます。
井上聞多(馨)
井上聞多は萩の藩校・明倫館で学んだエリートで、伊藤博文と共にイギリスに渡るなどして見聞を広めていきます。
ある時、井上は数人の男に突然襲われ、瀕死の重症を負ってしまいます。
井上を襲った犯人はそのまま逃亡してしまうのですが、明治の世になって意外な所からその犯人が名乗り出ます。
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