【3分で分かる】真田昌幸の功績と凄さ!最期の様子も分かりやすく解説!

2019-12-26

真田信繁(幸村)の父親にして、徳川家康が恐れたとされる武将・真田昌幸。

本来は真田家の家督を継ぐ立場にはなかったのですが、武田家滅亡で運命が大きく変わり、歴史の表舞台へと飛び出していく事になります。

 

迫りくる徳川の大軍を2度も上田城から敗走させた戦略と戦術は、息子の信繁にも受け継がれ、徳川家康の天敵として真田家は名を上げることになります。

今回は真田信繁の父親・昌幸について迫ってみたいと思います。

 

武田信玄の下で頭角を現す

真田昌幸は武田信玄に仕えた真田幸隆の3男として生まれます。

 

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昌幸の兄、信綱、昌輝も武勇に優れた名将で、武田家の中核を担っていました。

そこで昌幸は武藤家に養子に出され、武藤喜兵衛として三方が原の戦いにも参戦しています。

 

真田昌幸の肖像画
真田昌幸の肖像画

 

そんな昌幸の運命を変える出来事が起こったのは、信玄が亡くなった後の事でした。

信玄の跡を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで織田信長と徳川家康の連合軍に大敗を喫してしまいます。

 

この時に兄の信綱と昌輝が戦死します。

2人の兄が亡くなったことで昌幸が真田性に復帰。

 

真田家の当主として苦難の道を歩んでいく事になります。

 

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天正壬午の乱の流れ

天正壬午の乱とは織田信長が本能寺の変で亡くなった後に旧武田氏の領地を巡って徳川家康と上杉景勝、北条氏直が争った戦いの総称。

この巨大勢力の争いの中に真田昌幸も加わり、真田家の生き残りをかけて戦っています。

 

この天正壬午の乱は様々な戦いが含またとても複雑なものなのですが、今回は歴史初心者の方にも分かるように簡単にまとめて見ました。

まず、武田勝頼を天目山で滅ぼした織田信長は武田氏の領地を滝川一益などの家臣に与えます。

 

滝川一益の肖像画
滝川一益の肖像画

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真田昌幸もこの滝川一益の指揮下に入り勢力を保っていましたが、信長家臣団の配置が終わってすぐに歴史を動かす重大事件が起こります。

それが本能寺の変。

 

本能寺で信長が亡くなったため、織田家の家臣達は主君を失った孤軍になってしまいます。

しかも滝川一益達は新たな土地に赴任してきたばかり。

 

織田信長という強力な後ろ盾を無くした織田家臣の領地が他の勢力に狙われるのは目に見えたことでした。

これを好機と領土拡大に乗り出してきたのが信長の同盟者だった徳川家康

 

徳川家康の肖像画
徳川家康の肖像画

 

そして上杉景勝と北条氏政でした。

もうこの時の織田信長の勢力下だった甲斐や上野、信濃は大混乱。

 

撤退しようとする織田軍とこれを機に勢力を回復しようとする旧武田氏の家臣、そして徳川、北条、上杉がそれぞれの思惑で合戦を展開していきます。

 

この中で真田昌幸が新たな主君に選んだのが北条氏政(一時上杉についたとも)。

昌幸は北条氏の下で働く事で領土の拡大と安堵を画策します。

 

その後、北条氏政と上杉景勝が講和を結び徳川家康に照準をしぼった氏政ですが、圧倒的な兵力差を誇った氏政が徳川家康に敗北。

すると昌幸は徳川に鞍替えして北条に奪われていた沼田城を奪還しています。

 

その後も北条との戦いが続きますが真田信幸や矢沢頼綱の活躍もあり、真田勢は北条氏の侵攻に最後まで持ちこたえます。

 

徳川と北条が講和

大混乱の中行なわれた領土切り取り合戦(天正壬午の乱)は約5ヶ月続き、徳川家康と北条氏政が講和をしたことで一応の終戦。

北条との和睦がなった事で、徳川家康は次に上杉景勝に対する備えをしく事になります。

 

ここで上手く家康を利用したのが昌幸でした。

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昌幸は上杉に対抗するためと言って上田城の築城し、その資金を家康に援助してもらいます。

 

家康にとっても上杉に対抗するために真田昌幸の力は必要なので、もちろん資金を出した訳ですが、上田城が完成すると昌幸はあっさりと上杉に寝返ってしまいます。

 

上杉を抑えるために家康がお金を出して昌幸に造らせた上田城。

それが完成と同時に上杉の手に渡ってしまった家康の怒りは尋常ではなかったと思います。

 

ただ、この昌幸の裏切りには理由があって、家康が北条と和睦した際に昌幸が自分で奪還した沼田城を北条に譲り渡すように命令されていました。

昌幸からしたら、自分で勝ち取った領土を家康の命令で北条に差し出す理由は無く、これを機に徳川から上杉に鞍替えする事を決めたと言います。

 

それにしても、家康にお金を出させるだけ出させて裏切るという昌幸の図太さも中々のものです(笑)。

そしてこの昌幸の裏切りが第一次上田合戦へと繋がり、家康は自分がお金出して作らせた上田城攻めで、家臣団が完膚なきまでに叩き潰される事になってしまいます。

 

第一次上田合戦

真田昌幸が3倍以上の兵力で攻め寄せた徳川軍を撃退した第一次上田合戦。

第一次上田城の戦いとも呼ばれるこの戦いは、真田昌幸の武名と軍略を世に知らしめる合戦となりました。

 

上田合戦で真田軍が大勝した要因には、上田城の堅固さと、少人数で大軍を翻弄した真田昌幸の作戦の立て方にありました。

そんな訳でこの項では、第一次上田合戦で兵力的に圧倒的不利だった真田軍が徳川軍を撃退した理由について考えてみたいと思います。

 

まず、鳥居元忠・大久保忠世らの武将を中心とした徳川軍は、7000の兵力で上田城に攻め寄せます。

これに際して真田昌幸は領民を全員上田城内に籠城させ、領民と共に徳川軍に挑みます。

 

普段、領民の生活が苦しいと聞けば年貢を半減するなどの器の大きさを見せていた昌幸は、領民からも信頼されていたようで、籠城した民衆も真田家の武士と共に戦ったとされています。

そしてこの時に昌幸が取った作戦は、とにかく徳川軍を引き付けて戦う事。

 

兵力が圧倒的に少ない以上、戦線を広げてしまえば大軍に勝ち目はありません。

そのため昌幸は、おとりの兵にわざと敗戦を演じさせ、徳川の大群を上田城の二の丸まで攻め込ませます。

 

上田城の二の丸跡にある櫓と門の写真
上田城の二の丸跡にある櫓と門

 

そして狭いスペースに踏み込んで身動きが取れなくなった大軍に一斉に鉄砲を撃ちかけ、温存していた兵も出陣させ、徳川軍をいっきに殲滅します。

大混乱に陥った徳川軍は撤退。

 

しかし、攻め込む際は難なく攻め込めた上田の城下町ですが、逃げようと町に入り込むと、いたるところに柵がもうけてあり、城下町は迷路のようになっていました。

そこへ真田軍が火を放ち、城下町は炎に包まれます。

さらに上田城の近くにある砥石城を守っていた長男の真田信之も徳川勢に攻めかかり、多くの徳川軍を打ち取りました。

 

この第一次上田合戦、徳川軍の犠牲者は1300人で、真田軍の犠牲者は40人だったとされています。

 

徳川軍の敗北の様子

この第一次上田合戦の時の様子を書き記した書物があります。

徳川家康の家臣で、上田合戦に出陣していた大久保彦左衛門は『三河物語』に敗走時の様子を、

 

わが軍は腰が抜けて打って出ようという者がおらず、役に立たなかった。

 

と記しています。

 

この後、徳川家康は井伊直政らの援軍を送りますが、越後から上杉景勝の援軍が到着するなど戦況が不利になってきたため、撤退の命令を出します。

これにより、第一次上田合戦での真田軍の勝利が確定し、僅か2000の兵力で7000の徳川軍を撃退した真田昌幸の武名は世に知られることとなります。

 

【関連記事】

第二次上田城の戦いでの真田信幸vs信繁の兄弟対決はこちら!!

 

難攻不落の名城として名が残った上田城

そして、第一次、第二次上田城の戦いと、2度に渡って徳川勢を退けた城として有名になったのが上田城です。

 

尼が淵から見た上田城の写真
第二次上田城の戦いで徳川軍に多数の死傷者が出た尼が淵

 

しかも、第一次上田合戦の頃はまだ完成していなかったともされています。

では何故そんな城で徳川の大群を撃退する事ができたのか?

 

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それは未完成だったとは言え、真田昌幸が知恵を絞って築城した、攻めにくく守りやすい城だからと言うより他にありません。

上田城は『天守閣もない城』と侮られていたようですが、実際は千曲川の尼ヶ淵という断崖に建てられていて高い防御力を誇っている城でした。

 

地形的に徳川軍が攻めてくるとすれば東側から。

そう考えた昌幸は東側の守りに専念し、城下町に柵を設けるなどして戦に備えました。

 

数で劣る場合は兵力を分散せずに一点に集中して戦う。

この戦略で真田軍は徳川家に大勝しました。

 

ちなみに上田城は真田昌幸が徳川家康の傘下だった頃に、家康の援助を受けながら建築を始めた城。

徳川家康からしてみると、自分の援助で建てられた城で手痛い敗北を喫したとなると、その悔しさは計り知れないものがあったでしょうね。

 

徳川家康との関係

真田昌幸を語る時に外せないのが徳川家康との関係。

詳細に関しては改めて記事にしますが、昌幸は上田城に押し寄せた徳川の大軍を2度も敗走させています。

 

このどちらにも徳川家康は出陣していないので直接対決ではありません。

しかし、1度目の上田城の戦いでは鳥居元忠などの徳川家の精鋭武将を、2度目の戦いでは徳川秀忠率いる徳川本隊に完勝しています。

 

上田合戦はどちらも真田家の方が圧倒的不利な状況で、第1次上田城の戦いでは徳川勢7000に対して真田は1200。

第2次上田城の戦いでは徳川勢38000に対して真田は3500という兵力でした。

 

この状況で徳川軍に勝てたのは、昌幸が心血を注いで造った上田城と、智略の限りを尽くした戦略と戦術によるものです。

 

直接対決ではないにしても、徳川家康はこの上田合戦で昌幸の前に手痛い失態を犯したことになります。

そして、この遺恨は昌幸の子供・信繁(幸村)が活躍する大阪冬の陣、夏の陣に引き継がれていきます。

 

真田昌幸の性格

真田昌幸を表現する言葉として『表裏比興(ひょうりひきょう)の者』というものがあります。

これは、『表裏のあるくわせもの、一筋縄ではいかない策士』といった意味です。

 

昌幸の領地は上杉家、徳川家、北条家の大勢力に挟まれた地域にありました。

そのため、それぞれの勢力に臣従しては裏切り、裏切ってはまた戻るといった感じで、次々に主を変えていました。

 

織田信長の傘下に入ったこともあり、豊臣秀吉天下を取ってからは豊臣家の下で働いています。

この時に豊臣秀吉の家臣であった大谷吉継の娘と次男・信繁を結婚させています。

 

関連記事⇒真田信繁(幸村)に娘を嫁がせた名将・大谷吉継!!

 

弱小大名であった真田家を守るために、次々と主を変えて生き延びていく。

これが真田昌幸が『表裏比興(ひょうりひきょう)の者』と呼ばれる理由です。

 

そのため、ずる賢く、自分の事しか考えていない人物という風に見られがちですが、収穫の厳しい時には年貢を半減するなど、領民に対しては慈愛をもって接しています。

戦国の世を生き残るために謀略を駆使した昌幸ですが、性格的には人の気持ちをくみ取る優しさを持った武将だったようです。

 

関ケ原の戦いに敗れた昌幸の受難

1600年(慶長5年)9月15日の関ケ原の戦いは諸大名の予想を大きく裏切り、僅か半日で東軍の勝利が確定しました。

当初は家康に付くようなそぶりを見せた真田昌幸も結局は家康に付く理を見いだせずに西軍に与しました。

 

結果、関ヶ原の戦後処理によって昌幸と信繁は上田領没収と死罪を言い渡されました。

しかし、信幸とその舅・本多忠勝によってどうにか死罪だけは免れて高野山に配流、後に九度山に幽閉という処分を受けます。

 

九度山での困窮した生活

死罪こそ免れたものの、強制的に表舞台から降ろされた昌幸の心中は穏やかではありませんでした。

上田城を去る際、信幸への別れの挨拶に「ああ悔しいかな、本当なら内府(内大臣、家康のこと)こそをこのようにしてやろうと思ったのに!」と本音を吐露したと伝わります。

 

初めは高野山に配流された昌幸一行ですが、一説には女人禁制の高野山に信繁が止む無く妻を連れてきたことを理由に配流先を九度山に変更になったと伝わります。

九度山では昌幸、信繁はそれぞれが別で家を構えていたことを慮って屋敷を別々に造営され、それなりに気を遣われていたようです。

 

流罪人はブタ箱同然に誰もが一緒にぶち込まれるのが通例のようですが、そういう意味ではまだ幸運な方だったのでしょう。

 

九度山での生活費は、信幸や親交の深かった浅野幸長からの仕送りで賄っていました。

しかし、信繁の妻子や臣下を含めた16人、さらにそれに仕える者達を含めるともっと多い大所帯の生活を賄うため、生活はあっという間に困窮していきました。

 

その上、最大の心配事は信繁に数人の子供が生まれたことでした(この中に、大坂の陣で信繁と共に戦死する大助こと真田幸昌、伊達家臣となる片倉守信もいる。)

後に信繁が大坂城に入る際に九度山の土豪を多数従えていたことを考えると、この時期から積極的に恩赦をばらまいていた可能性も考えられます。

 

流罪人の割には何だかいい生活をしているようで、要するに必要経費も含めて想像以上に金を使うことが多かった結果が彼らの困窮を招いたのだと考えられます。

しかし、決して贅沢な暮らしをしていたわけではなく、やはり元から困窮していたことには変わりないのでしょう。

 

信幸への仕送りを催促する手紙

お金に困った昌幸は、信幸に対して仕送りの工面をするようにお願いする手紙を送りました。

「こちらは借金が多く困っている。残りの20両を一日も早く届けて欲しい。出来ないなら5枚でも10枚でもよいから」と、深刻な状況を信幸に吐露しています。

 

それに一応流罪人であることから、昌幸らは関ケ原以降その他の大名や家族にも会うことができませんでした。

信繁が信幸に送った手紙の中には「こっちの様子は相変わらずだが、冬は特に寒くて我慢できたものではない。どうか一度会いに来てほしい。」と金の無さもさることながら、人との交流が絶えて久しい現状に辛さを感じていることを明かしています。

 

伝説ではこの時期に軍略を練ったり、真田紐を編んで家臣に行商させることで情報収取をしたというのが有名ですが、これらはいわゆる俗説に過ぎず実際は一刻も早く赦免されたいと思い、昌幸が家康に向けて「もう我慢できないから早くここから出して!」との手紙を出しています。

 

しかし、その願いが聞き入れられることはありませんでした。

折しも二代将軍になったのはかつて自分が打ち負かした秀忠です。

 

秀忠も昌幸の下山を許したような形跡は一切なく、結局九度山から出られないうちに昌幸は見る見るうちに衰弱していきました。

 

昌幸の最期の様子

最晩年、昌幸は信幸の平癒祝いに手紙を送りました。

その中には「現在自分も病んではいるが、信幸が無事完治したようでよかった。」と自分もまた病に罹っているということを明かしています。

 

大名として自分の才覚を存分に発揮していた頃とは打って変わってだいぶ緩いにしても監視をつけられ、外との交流も禁止されてしまった現在ではさしたる刺激もなくただただ平然と世を過ごすという状況でした。

 

現代でも仕事を辞めた後にモーレツタイプのサラリーマンだった人ほど目標を失って痴呆に罹りやすくなるという話をよく聞きますが、決して道楽なタイプではなかった昌幸には変化のない生活が一番堪えたようです。

家臣が昌幸を慕ってわざわざ上田から九度山に来るということも多々ありましたが、それでは彼は満足しませんでした。

 

1611年(慶長16年)、昌幸は九度山にて病没します。

 

謀略の限りを尽くした真田昌幸。

戦国大名たちからは信頼されていなかったのか、その末路はかなり寂しいものだったようです。

 

この九度山の地で真田昌幸は65年の生涯(諸説あり)を閉じています。

最後まで徳川家に対して放免を願い出て、信州に帰る事を願っていた昌幸でしたが、その願いは最後まで叶えられることはありませんでした。

 

昌幸の遺体は火葬され、地元である信州上田に墓所が築かれています。

 

[char no="2″ char="三日月"]九度山にも昌幸の墓所があります。[/char]

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その他の逸話

真田幸村(信繁)の名前の由来

真田昌幸は武田信玄に対しては尊敬の念を抱いていました。

次男の幸村として有名な息子に付けた『信繁』という名前は、信玄の弟で名将の誉れが高い武田信繁から取ったものです。

 

昌幸にビビりっぱなしだった家康

また、昌幸に2度も煮え湯を飲まされていた徳川家康が、大阪の陣で真田が大阪城に入ったと聞き、「親(昌幸)か?子(信繁)か?」と取り乱したそうです。

この時既に真田昌幸は亡くなっていましたが、その状況を家康が知らなかったとしたら、この慌てようで、家康にとって昌幸がどれほどの脅威だったかが分かります。

 

真田丸で昌幸を演じた草刈正雄さんの逸話

大河ドラマ真田丸では草刈正雄さんが真田昌幸を演じました。

真田丸での昌幸は天性の感覚人間で、家族にも平気で嘘をつく2枚舌。

 

息子の信幸や信繁に弱い部分を見せることがあってもすぐに自分を取り戻し、策を練って真田家が生き残る方法を考えるという根っからの策士として描かれました。

 

実は昌幸を演じる草刈正雄さんは、若い頃、真田太平記というドラマで真田信繁を演じた役者さんです。

それが30年経って信繁の父親の昌幸を演じるのですから感慨深いものがあるでしょうね。

 

ちなみにその時真田昌幸を演じたのが丹波哲郎さん。

草刈さんは真田丸での昌幸の役作りをする際、丹波さんの演じた昌幸が頭から離れない時期があったそうです。

 

まとめ

歴史の中には家康のように数々の犠牲を払って勝利を手にした者もいれば、昌幸のようにかつての栄光はどこへやらで空しく死んでいった者もいます。

信繁はひどい死に方をした父の姿を見たからこそ、大坂の陣で出陣できることが決まった時はそれはそれは嬉しかったことでしょう。

 

孫の幸昌や守信からすれば、九度山から出た時に初めて外の世界に出たことになるでしょうか?

 

少し話がずれますが、当時の民達は交通手段もなければ無闇に敵領地に出入りすることも出来なかった暮らしをしていたのです。

それを考えると、普段平然と県外や海外に出て暮らせる現代社会はとても恵まれた社会なのかもしれませんね。