真田丸38話『昌幸』の感想!昌幸ロスと忠勝ロスが辛すぎる!

2017-12-31

真田丸38話『昌幸』は約10年の歳月の流れが凝縮された回だったので、真田昌幸、加藤清正、本多忠勝の3人が真田丸を退場していきました。

 

その中でも昌幸と忠勝は真田丸初期から出演していた人物なので、これから見られなくなると思うと少し寂しいですね。

 

本多忠勝の最期

特に忠勝は、北条に名胡桃城を攻められた際に助太刀を申し出るも、『ここは真田の軍議の場でござる。舅殿は稲の元へお帰り下さい。』と真田家の次期当主としての気概を見せる信幸を頼もしそうに見つめたり、信幸と一緒になって、家康に昌幸と信繁の助命嘆願をする本当に愚直で心優しいパパでした。

 

生涯、かすり傷1つ負わなかったと言われる忠勝の戦場での戦いのシーンは描かれませんでしたが、今回の真田丸で本多忠勝のファンになったという人も多いのではないかと思います。

 

戦場ではキズ1つ負わなかったものの、不注意とはいえ小刀で怪我をしてしまった。

そこで自分が老いたことを感じて隠居を申し出るという展開も忠勝らしいなと思いました。

 

本多忠勝は蜻蛉切(とんぼきり)という名槍を持っていたことで有名ですが、最後に竹とんぼを登場させたのも三谷さんなりの演出だったのかもしれませんね。

 

百助も仙千代にとっても本当にいいおじいちゃんって感じでした。

 

関連記事⇒徳川四天王・本多忠勝の蜻蛉切と数珠の逸話!!

関連記事⇒戦国最強と言われる本多忠勝と三国志の張飛の共通点!!

 

豊臣秀頼のカリスマ性

そして38話で驚いたのは豊臣秀頼のカッコ良さ。

今まではどちらかというと2代目のお坊ちゃんとしてい描かれることが多かったように思いますが、今回の聡明でカリスマ性のある秀頼は見ていてめちゃくちゃ惹かれる部分がありました。

 

『どんな形であれ大事なのは私と家康が会う事。そうではないのか?』というセリフにも頭の良さが表れていますが、それ以上に秀頼を演じる中川大志さんの演技が素晴らしいと思いました。

 

二条城では下座に座りながらも『豊臣秀頼である。』と言い放ち、上座に座っていた家康が思わず圧倒されてしまったシーンは爽快でしたね。

まあ、秀頼が聡明すぎたために家康は豊臣を滅ぼすことを決意したと言いますが、こんなカリスマ性のある秀頼なら納得です。

 

秀頼は身長が190cm以上あり、身長が低かった秀吉の実の子供ではないという逸話もあります。

茶々と幼馴染であった大野治長との子供ではないかという噂が当時からあったようですが、ここら辺は真田丸では描かれないのか?

 

関連記事⇒豊臣秀頼の本当の父親と子供国松の生存説!!

 

まあ、どちらにしても真田丸の秀頼は、また新しい秀頼像を作り上げてくれそうです。

 

加藤清正と三成の言葉

秀吉の下で武功を挙げた加藤清正も今回が最後の登場となりました。

家康が毒饅頭を使って暗殺したという説がある清正ですが、真田丸では服部半蔵が忍びの術(毒殺?)で始末したことになっていました。

 

そして、犬猿の仲として知られる三成と清正ですが、真田丸では表面上は反目しながらも心の底ではお互いを認めているというスタンスでした。

 

関連記事⇒真田丸では仲良し?加藤清正と石田三成の不仲の原因とは?

 

三成が関ヶ原の戦いを起こす前に清正に耳打ちした言葉は『自分が志半ばで倒れたら豊臣家を託す。命を懸けて秀頼様をお守りしろ。』というもの。

今回の真田丸を見て、2人が幼いころから一緒に育ってきたことを考えると、本当はこんな風に心の底には友情があったのではないかと思いました。

 

相変わらず、三谷さんの脚本は歴史上の人物に対するリスペクト感が強いですね。

 

家康の賢威に怯むことなく最後まで秀頼のために尽くした清正。

 

今も熊本の人達に大切にされている理由が分かります。

 

関連記事⇒熊本城を築城した加藤清正の人気の理由と家臣に対する名言!!

 

昌幸の最期

 

そして、我らが昌幸パパの最期。

信繁が大坂城に入って幸村と名乗る伏線もしっかりと登場しました。

 

信幸が捨てた昌幸からもらった『幸』の字。

これを信繁が引きついで、父親の無念と共に家康を追いつめる。

 

本当に良く考えられた展開だと思います。

スポンサーリンク

 

さらに昌幸が信繁に託した対徳川の戦略。

大坂の冬の陣は昌幸の策を持って徳川方を迎え撃つとなると、真田丸は信繁ではなく昌幸が本当の主役なのかもしれませんね。

 

関連記事⇒真田信繁(幸村)と井伊直孝_真田丸で対峙する2つの赤備え!!

 

時代の変化もあり信幸と信繁に追い越された感もある昌幸でしたが、やはり、軍略に関しては他を寄せ付けない偉大なパパでした。

 

昌幸が10年の歳月をかけて記した兵法の奥義は、実際に発売されれば当時の戦国大名たちがめちゃくちゃ欲しがったに違いありません。

 

『絶対に敗けない!徳川軍を2度も破った真田昌幸が明かす少数で大軍を破る究極の戦術』

『真田昌幸が上田城で徳川軍を撃退できた本当の理由』

 

こんなタイトルを付けて売り出せば、九度山の困窮生活が吹き飛ぶくらい稼げたでしょうね。

真田紐売るよりも絶対に効率と反響がいいハズ(笑)。

 

最期は武田信玄が迎えに来て一緒に旅立って行った昌幸。

主君を度々替えて『表裏比興(ひょうりひきょう)の者』と呼ばれていますが、それは武田信玄を超える主君に出会えなかったからなのかもしれません。

 

関連記事⇒織田信長も恐れた武田信玄が残した名言!!

 

『軍勢を1つの塊と思うな1人1人が生きておる、1人1人が想いを持っておる。それをゆめゆめ忘れるな。』

信繁に送った昌幸のこの最期の言葉は、大坂の陣で指揮を執る信繁にどのような影響を与えるのでしょうか?

 

関連記事⇒真田昌幸の高野山・九度山での困窮生活と最期の様子!!