大坂の陣で真田幸村と共に戦った大坂城五人衆の逸話!!

2019-12-26

大坂の陣で豊臣方について戦った武将の多くは、関ヶ原の戦いで敗北した武将たちでした。

その中でも特に武勇に優れ、戦働きの実績があった者は大坂城五人衆(大坂牢人五人衆)と呼ばれています。

 

そのメンバーは真田信繁をはじめ、後藤又兵衛や毛利勝永など層々たる顔ぶれでした。

今回はこの大坂城五人衆についての紹介です。

 

真田信繁

真田信繁は徳川家との戦いに2度も勝利している真田昌幸の次男。

2度目の上田城の戦いでは信繁自身も槍を持って徳川勢と交戦しています。

 

大坂の陣では具足を真っ赤(朱色)に統一した赤備えという軍勢を率いて戦ったことで有名。

 

大坂城五人衆の中ではやや実戦経験は劣るようにも思いますが、徳川家康の陣に突撃し、家康をあと一歩のところまで追いつめたという功績で、五人衆の中で一番に名前が上がる人物です。

 

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後藤又兵衛

豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師・黒田官兵衛に仕えた猛将。

槍働きは抜群でしたが傲慢な性格が災いして黒田官兵衛の息子・長政と対立。

 

黒田家を出奔して浪人生活を送っていました。

そんな中、豊臣秀頼の招きに応じる形で大坂城に入り、徳川軍との決戦に挑みます。

 

後藤又兵衛は家老にまで登りつめた元黒田家の有力家臣で戦場での武功も数知れず。

大坂五人衆の中で最も頼りにされていた人物ではないかと思います。

 

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毛利勝永

毛利勝永は豊前小倉6万石を治めた毛利勝信の息子。

関ヶ原の戦いの開戦前の伏見城攻めでは抜群の働きをし、毛利輝元から加増を受けています。

 

大坂の夏の陣でも徳川勢に突撃を繰り返し、真田信繁が家康本陣に迫るための活路を開きました。

勝永の用兵の才は、後藤又兵衛や真田信繁に勝るとも劣らないものですが、知名度としては今一つの武将です。

 

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明石全登(あかしてるずみ)

明石全登は関ヶ原の戦いで西軍の副将となった宇喜多秀家の家臣。

関ヶ原の本戦にも出陣し、東軍の猛将・福島正則の部隊と一進一退の激戦を繰り広げています。

 

大坂の陣で敗北が決まると大坂城を脱出したと伝えられますが、熱心なキリシタンであったことから自害をする可能性は少なく、未だにその後の消息は謎のままです。

 

詳細記事⇒明石全登の読み方は!?大坂の陣後の行方!!

 

長宗我部盛親

四国を統一した長宗我部元親の四男で、元親亡き後に長宗我部家の当主となります。

関ヶ原の戦いには西軍として参戦しますが、最後まで戦闘に加わることなく敗北。

 

戦わずして土佐一国を失ってしまいます。

その後は寺子屋の先生をしながら再起の時を待ち、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に参陣しています。

 

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