結城秀康は鼻が欠けていた?家康に嫌われた次男の性格と逸話!!

2019-12-26

家臣である三河武士とは強い絆で結ばれていたとされる天下人・徳川家康。

しかし、数多くいた息子達とは必ずしも仲が良かったとは限りませんでした。

 

天下人の息子とはつまり国を担う後継者、そこは家康も割り切って考えていたようです。

実際、家康と息子達とは不仲であるとのエピソードが伝わります。その中でも代表的なのは、次男・結城秀康です。

 

有り余る才能を持ちながら、その生涯は数奇で何とも言い難いものでした。

 

結城秀康とは?

結城秀康は家康の次男でありながら、生涯にわたって徳川の姓を名乗ることはありませんでした。

秀康は1574年(天正2年)、徳川家康と永見吉英の娘である長勝院の間に生まれ、幼名は於義丸(おぎまる)と言いました。

 

秀康が5歳の時に兄である信康とその母である築山殿が信長の命令で切腹させらると、於義丸は嫡男となります。

しかし、家康が羽柴秀吉と争った後に講和を締結すると、於義丸は秀吉の元へ養子(実際は人質)として送られてしまい嫡男から外されてしまいます。

 

この時に改名した於義丸は、「羽柴秀康」と名乗ります。

秀吉・家康からそれぞれ一字もらってつけた名前です。

 

当時羽柴の姓を賜った者は秀吉の養子である秀次、秀勝など血縁者ばかりでした。

つまり、秀康はこの時点で秀吉側の人間として扱われるようになったのです。

 

その後、島津氏を攻めた九州征伐で初陣を飾った秀康はその活躍で豊臣の姓を賜ることとなります。

しかし、それから間もなく秀吉に実子である鶴松が生まれることとなり、秀吉に数多くいた養子達は他家にたらいまわしにされることとなるのです。

 

秀康の場合、実父である家康が関東に転封されることとなったので、それに従い北関東の守護である結城晴朝(ゆうきはるとも)の姪と結婚させられました。

こうして「結城秀康」が誕生したのです(結城秀朝と名乗っていた時期もある)。

 

秀康は文禄・慶長の役にも参加し、関ケ原の戦いでは小山評定で西進した家康・秀忠の部隊とは別に留守居役として会津の上杉景勝を牽制する役目を与えられました。

この任を見事に全うした秀康は、戦後の論功行賞において唯一50万石を超える破格の加増を受けることとなりました。

これは東軍に付いた大名達の中でも随一の厚遇でした。

 

関ケ原から3年後、家康は将軍となり江戸幕府を開きます。

既に弟の秀忠が後継者に任命されていましたが、秀康は秀忠から御三家に勝る家として扱われ、不臣の礼を許されていました。

しかし、それから数年後に秀康は「梅毒」で亡くなってしまいます。梅毒によって鼻が欠けてしまい、満足に人前に立つことも出来なかったと伝わります。

 

晩年には「松平」を名乗ったとも言われていますがその真偽は定かではありません。彼の子孫は松平家、または結城家、そして永見家としてそれぞれ存続しています。

 

秀吉に好かれ家康に嫌われていた?

養父・秀吉には息子同然に厚遇された秀康ですが、実父・家康からは生まれたその瞬間から嫌われていたと伝わります。

その理由としては、彼が双子で生まれたからだというのです。

 

当時、双子は畜生腹と呼ばれて忌み嫌われていました。

この風習はどうも一部の地域では戦後まで続いたとされていますが、ともかく家康は秀康の生い立ちから彼とは会いたがろうとしませんでした。

秀康が家康と対面できたのは、兄・信康が家康を説得したために仕方なく実現したものだと言われています。

 

その後、信康が切腹して秀康が後継者とされるはずが秀吉に養子として出されて徳川から外されたのは先述の通りです。

 

同じような例として、六男・忠輝の存在があります。

忠輝は生まれながらにして豪快な性格、そして不遜な働きが多いという問題児でしたが、彼もまた家康に嫌われていたと伝わります。

その理由は、彼がかつて自分が殺した信康に似ていたからだと伝わります。

 

察するに、家康は何かの形で子供に無理やり序列をつけようとしたのかもしれません(勿論、個人の感情が絡んでいた可能性も捨てきれませんが)。

しかし、秀吉の元で一人前に成長した秀康を家康は一門の人間として扱っています。

 

先述したように関ケ原での加増も秀康が諸大名を抑えて圧倒的大差をつけています。

秀康が生まれた頃、家康は織田・武田・羽柴と数々の強豪がひしめく中で我が子を犠牲にしてでも家を守らなくてはならなかった状況でした。

本能寺の変と絡んで、織田・徳川の同盟は実は通説のような信頼厚いものではなく、利害関係にすぎず信長は家康を排除しようとしたとする可能性さえあると伝わります。

 

本多忠勝鳥居元忠ら三河武士に対しても政治絡みの件では心を鬼にしている事もある家康なので、その辺りはある意味で息子にも覚悟してもらっていた分、成人した後は大名として最大限厚遇したのかもしれません。

家康が秀康を嫌っていた、嫌っていないと判断するのは難しいでしょう。

 

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秀康の逸話からみる性格!!

通説では、大人しい秀忠に対して豪快な性格であるとされている秀康。

有名な話として、秀康は結城晴朝から譲られたとされる「御手杵(おてぎね)」という長槍を振るったとされています。

槍身のみで全長210cm、穂先が138cmというとんでもない長さの槍です。

 

秀康は九州征伐では先鋒を任されたとされる人物、武勇に関しては兄・信康も長篠の戦いで先鋒を演じたとされる人物でした。

三河武士の勇武の血と魂は秀康にも確かに受け継がれていたようです。その器量は上杉景勝も認めていたとされています。

 

また、秀康は秀忠が家督を継いだ際に伏見城代を務めていましたが、この時に出雲阿国の舞を鑑賞しました。

その時に「彼女の舞は天下を制するものだ。私は天下一の男であるはずなのに、この女にすら先を越されてしまうとは。」とつぶやいたとされています。

 

やはり不可抗力とはいえ弟に先を越されてしまったことに深い負い目を感じていたのは間違いないでしょう。

 

晩年、梅毒によって鼻が欠けてしまったために面会の際には鼻を隠そうとしていました。

一度容態が回復した秀康が家康に面会を求めたことがあります。家康の元に挨拶に伺った際もそのようにしていましたが、家康がその事を知ると面会を拒否されてしまったという話があります。

 

家康は「病人が体を欠損することは恥ではない。それを着飾って隠そうとするのがいけないのだ。」と言ったと伝わります。

まあ、現代ならこんな事を言われては敵わないでしょうが、秀康は武勇を誇った身としてはせめて外面だけでも威厳を保ちたいという思いがあったのうか?

それとも、家康に対して何かしらの当てつけをしたかったのか?

いずれにせよ、おちおちと引きこもっている質ではなかった彼が気力を振るおうとして受け入れられなかったということでしょう。

 

ちょんまげを結えないほどに禿げた男性がかつらを被ったという話があるように、彼にも威厳を何とか演じようとする一面があったのでしょう。

そんな生き方は、どこか演出に長けた養父・秀吉に近いものを感じませんか?

 

もし大坂の陣まで秀康が生きていたら?

家康の血を引きながらも、実際は秀吉に多大な恩を受けた秀康。

彼が徳川の世で残された豊臣秀頼の事を弟だと公言し、「弟に危害を加える者があれば、俺自ら立ちはだかる」とまで言っていたとされる話は有名です。

 

そんな逸話から、もし秀康が大阪の陣まで生きていたら・・・という期待の話も浮かび上がるでしょう。

では、秀康が何の病気にもならずに元気に大阪の陣を迎えたらどうなっていたのでしょうか?邪推ながら、少し考えてみましょう。

 

秀康が実家の徳川よりも豊臣に対して恩義を感じていたのは事実でしょう。

家康が関ケ原の論功行賞で秀康を最も優遇したのは、秀康が徳川・豊臣の両方の流れを汲む人物であるからでしょう。

 

上杉景勝や石田三成とも親交がある彼は、豊臣家が健在の状態ではある種の象徴のように扱う必要があったのでしょう。

しかし、いかに恩義があっても実際には秀康は東軍に付きました。

 

徳川に利ありと現実的に判断したのか、はたまた家康が豊臣を滅ぼさないうちは政権維持に努めようとしたのか、この時点ではその対応に複数の解釈ができます。

 

では、大阪の陣の頃はいかがでしょうか?

既に豊臣が天下を再興するなんてことは夢幻になっており、幕府はいかにして豊臣を滅ぼそうとしたのかを思案していた頃です。

 

この状況で秀康が義理を通して豊臣に付くかといえば、それは難しいと思います。

戦が起きる前に政争などで秀頼が不利になるような事を防ごうとはしたでしょう。

 

立ち位置としては加藤清正達に近いでしょうか。では、豊臣恩顧の大名達が大阪の陣でどのような態度を取ったかを参考に見てみましょう。

加藤清正は既に亡くなっており、加藤家は徳川家に付いています。

 

福島正則はこの時まだ存命でしたが、江戸城での留守居役を命じられており本戦には参加できませんでした。

その他、数々の豊臣恩顧の大名も時制に従ったり世代交代で既に豊臣への忠誠を無くしていました。

 

実際の歴史では、秀康の息子・松平忠直は当然のように徳川軍にいました。

秀康も子孫に豊臣を盛り立てるような指示はしていないようです。

 

大名として見ていくと、秀康が豊臣方に付くのは家臣を路頭に迷わせることでありリスクしかありません。

もし秀康が秀頼を公然と保護しようとしたのならば、答えは正則を同じく軟禁でしょう。

命令の主は当然家康、逆らえば待っているのは白刃でしょう。そう考えると、秀康が大坂の陣まで生きていても残念ながら豊臣家に付いて真田と共に突撃なんてことにはなりそうにないようです。

 

秀康は豊臣・徳川のどっちに転んでも重要な立場にいたのは間違いないでしょう。

しかし、天下が徳川に定まりかつ秀忠が後継者に決まった時点で、彼の役目はもう殆ど終わったようなものでした。

 

彼の生涯最大の不運、それは彼が生まれたのが天下人・家康の元だったという事かもしれません。