真田丸とは?大坂城にあった難攻不落の出城の場所と仕組み!!
2016年に放送された大河ドラマ『真田丸』。
この大河ドラマのタイトルになっている真田丸というのは、かつて真田信繁が築城し、実在していた出城(要塞)の名前だというのはご存知でしょうか?
ではいったい真田丸とはどういった造りで、どういった役割を担っていたのか?
今回は真田丸が築かれた場所や大坂冬の陣で真田丸が果たした役割についてみていきたいと思います。
真田丸とは?
真田丸とは大坂冬の陣の際に大坂城の南側に築城された出城。
出城というのは本城から少し離れた場所に造った小さな砦のようなものです。
では真田丸はどこにあったのか?
真田丸は豊臣秀吉が築城した大坂城の南側、惣構えという城の1番外側の堀があった場所から突き出すように造られました。
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当時の大坂城の北・西・東は淀川や大和川などが天然の堀の役割を果たしていて、大軍がいっきに攻め込むのが難しい造りになっていました。
しかし、大坂城の南側だけは地続きになっていて、唯一大軍が陣を張るスペースがありました。
言ってみれば大坂城の防備が1番手薄になっている場所。
そこに真田信繁が築いたのが真田丸という出城(砦)でした。
真田丸は武田信玄の築城術が使われた出城
この真田丸は真田信繁の父・昌幸が仕えていた武田家が得意とする武田流築城術を取り入れたもの。
丸馬出しという防御力が高く、反撃に向いた拠点を造る事が特徴的で、真田丸も丸馬出しを進化させて造られています。
丸馬出しの特徴は半円の堀(三日月堀)を掘り、その後方に城への通路、両サイドに入口(出撃口)を設けていることが上げられます。
つまり、三日月掘があるため、真正面から城に攻め込む事ができず、城に続く通路に入るには両サイドに設けられた入り口に向かう必要があります。
その際に丸馬出しの中と、本城の城壁の両方から銃撃できるという仕組みになっています。
ちなみに下の図は沼津城の絵図面なのですが、この図を見てもらえば丸馬出しのイメージが湧きやすいと思います。
(赤い矢印が鉄砲による攻撃範囲。)
画像引用:広島市立図書館HP
城に入ろうとする敵に対して側面から銃撃出来るようになっているのが分かると思います。
真田丸はこの武田流築城術で築かれた丸馬出しを大規模にしたものです。
城の出入り口の事を虎口(こぐち)と呼ぶのですが、城の防御力の要はこの虎口にかかっています。
敵を城門のある四角い空間までおびき寄せて四方から銃撃できる枡形虎口と並んで、この丸馬出しも守りやすく攻めにくい城の造りとなっています。
ちなみに、現在残っている大坂城の遺構は豊臣秀吉が築城した大坂城が大坂の陣で消失した後、徳川家康が当時の石垣の上に新たな石垣を積み直して完成させたものです。
(現在の天守閣は戦災で消失した後に鉄筋コンクリートで復元されたもの。)
その為、真田丸が築かれた当時の大坂城とは全くの別物で、真田丸の詳しい場所や全容というのはハッキリ分かっていません。
【追記】
最近の調査で真田丸は半円形の出丸ではなく台形に近い形の出丸であったことが分かりました。
下のジオラマが最新の調査から想像される真田丸の全容です。
真田丸の復元ジオラマ 画像引用:天王寺区HP
真田丸の場所に関しても詳細な調査が行なわれ、現在の大坂城の南にある三光神社と明星中学校の辺りが真田丸のあった場所である事は間違いありません。
真田丸の戦い
大坂の陣を直前、豊臣秀頼に招かれた真田信繁は大坂城に入場します。
真田信繁や後藤又兵衛は城から打って出る事を事を主張しますが、首脳陣がこれに反対し、大坂城の防御力を過信し、最初から籠城することを選びます。
それならばと、防御が1番手薄な大坂城の南に真田丸を築いた真田信繁。
信繁はこの真田丸に籠もり、大勢の徳川軍を討ち取ります。
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大坂冬の陣の徳川方の損害のほとんどが、真田丸の攻防でのものだったとされています。
武田信玄の下で成長した真田昌幸。
その昌幸から信繁に受継がれた武田流築城術の丸馬出しは真田丸と名前を変えて、徳川家康を大いに苦戦させることになりました。
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江戸時代になって真田丸はどうなった?
江戸時代前期の時点で廃城となっていた城を絵図にしてまとめたものが「浅野文庫所蔵 諸国古城之図」として、広島の浅野家に伝わっています。
これは広島市立図書館のHPから見ることができるのですが、その中に真田丸を描いたものが残っています。
ちょっと分かりにくいかもしれないので、その図にだいたいの場所を記載してみました。
上側(北)が大坂城内です。
画像引用:広島市立図書館HP
今ではほとんど痕跡を確認する事ができない真田丸ですが、江戸時代にはまだある程度の遺構は残っていたようです。
『兵が夢の跡』
その痕跡を確認できないのは少し寂しいですね。
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