真田幸村の人気の理由、それは何といっても大坂夏の陣で家康をあと一歩まで追い詰めたという戦ぶりです。

その証拠に、信繁の活躍は戦国最後の華として講談などによって後世まで語り継がれています。

 

今回は悲劇の英雄・真田幸村の大坂夏の陣での最期の様子をご紹介したいと思います。

既にご存知の人も多いでしょうが、新しい発見があるかもしれませんよ?

 

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短銃(ピストル)を使って家康を狙撃?

現在、大阪市では大坂の陣400年を記念して『真田幸村公資料館』がオープンしています。

ここでは幸村と大坂の陣に関する数々の貴重な資料が展示されています。

 

中でも注目すべきなのは、幸村が家康を狙撃するために所有していたとされる『宿許筒(しゅくしゃづつ)』と呼ばれる小型の銃です。

 

何とこの時代としては最新鋭の技術を用いた連射式の銃でした。

幸村は家康まであと一歩まで迫った際、『宿許筒(しゅくしゃづつ)』で家康を狙撃しようとしましたが、誤って手から落としてしまい狙撃は成りませんでした。

 

大阪の陣の後戦利品として長らく紀州徳川家が所有していましたが、第二次世界大戦の際に武装解除の一環としてアメリカ人将校が買い上げ、それからはアメリカ・オレゴン州にありました。

ところが2009年に20年もの交渉の末に砲術研究家の澤田平氏が約400万円で購入し、日本に戻ってきたのです。

 

『宿許筒(しゅくしゃづつ)』が400年もの歳月をかけて大阪に戻ってきた事もそうですが、火縄銃のイメージが強い戦国(江戸)時代に、真田幸村が短銃と呼ばれる武器を使って家康を狙撃していたというのは意外ではありませんか?

 

『真田幸村公資料館』は澤田氏によってオープンされた博物館で、大坂城真田鉄砲隊も募集しているので、興味がある方はぜひ真田鉄砲隊として銃を握ってみてはいかがでしょうか?

 

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真田丸での勝利

大阪冬の陣で徳川軍は思わぬ苦戦を強いられました。

幸村が建てた真田丸によって防衛の姿勢を崩さなかったために、徳川軍は幸村の挑発に乗った先鋒隊が迂闊に手を出し、大打撃をくらい敗走するという事態に陥りました。

 

大阪冬の陣に関しては、徳川軍が出した戦死者の大多数がこの真田丸を攻めた兵だったことから、幸村がいかに徳川軍を手玉に取ったかが分かります。

 

Sanada-Yukimura

 

この事態には、さすがの家康も幸村をどうにか引きはがせないかと思い、早くから徳川に着いていた幸村の叔父である真田信尹(のぶただ)を送り、破格の条件で幸村を篭絡(味方に引き込もうと)しようとします。

 

しかし、幸村は『寝返るわけないだろう』と毅然とした態度で信尹を追い返しました。

こう着状態が続き、大阪冬の陣が終結すると、家康は講和の条件として大坂城の総掘を埋めてしまいます。

 

こうすることで、大阪城は丸裸にされ、城塞としての防御力を無くしてしまいます。

 

そして、大阪夏の陣で再び戦いが始まると、家康は余裕の態度を見せるために鎧も着けずに出陣しました。

 

野戦に持ち込めば数で勝る方が圧倒的に有利。

家康は短期間で決着がつくと思っていました。

 

一度は切腹を覚悟した家康

戦は当初の予定通り首尾よく徳川軍が優位に事を進めているように見えました。

しかし、豊臣軍の毛利勝永木村重成の攻撃によって徳川軍は第一陣から第三陣まで壊滅的な打撃を受けていました。

 

これによって家康がいる本陣は防御を完全に失っていました。

 

この時、幸村は松平忠直の部隊と交戦していましたが、忠直と幸村は互いを過ぎ去ってしまい忠直は大坂城に一番乗りを果たします。

それとは入れ違いに幸村は徳川本陣に現れます。

 

幸村は主力を失い混乱する徳川軍に対し3度に渡って突撃。

混乱によって徳川軍はおよそ本来の力を発揮できないまま信繁に押されていきます。

 

この時、大将(家康)の居場所を示す馬印が三方が原の戦いで武田信玄に大敗した時以来、土についたと言われています。

 

もし自分が討ち取られるようなことがあれば、徳川の権威は地に落ちる。

家康はせめてもの報いとして自ら切腹を覚悟しました。

 

しかし、周囲の家臣が早まってはならないと言って必死で家康を引き留め、本陣から撤退させます。

この事からも、家康は本当に信繁の軍に討ち取られる寸前であったという事が分かります。

 

家康が自害を覚悟するという事は幸村の兵が目の前に迫っていたという事、幸村は本当にあと一歩のところまで家康を追いつめていたことは間違いないようです。

 

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幸村の最期の様子

徳川軍に対して激しい攻撃を繰り返す幸村でしたが、時間が経つにつれて部隊に疲れが見えてきます。

そして数に勝る徳川軍が統制を取り戻していくと徐々に真田軍は押し返されてしまいます。

 

多くの兵が家康の本陣へと戻ってきたため、幸村は徳川本陣から手を引くしかありませんでした。

 

Sanada_Yukimura

 

そして、度重なる突撃を繰り返し、体力を使い果たした幸村は安居神社で休息をとっていました。

もう、まともに立ち上がる気力すら残っていなかったのかもしれません。

 

そこへ、松平忠直の配下・西尾久作が現れます。

この時、幸村はもはやこれまでと悟り「俺を討ち取って手柄とせよ。」とだけ伝え、その首を久作に託したと伝わります。

 

真田幸村の最期は、華々しく戦場で散るというよりは、最後の力を振り絞って戦い、望みが絶たれた後に敵に自分の首を取らせたという事になります。

 

あと一歩まで家康を追い詰めた幸村でしたが、目的を果たすことは叶いませんでした。

幸村の死によって家康は再び冷静さを取り戻し大坂城は落城。

 

これによって、戦国の世は完全に終わりを告げます。

 

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幸村に勝算はあったのか?

幸村には勝算があって豊臣軍に参加したのか?

それとも武士の意地のために利害度外視で参加したのか?

 

古くから幸村の心情を扱う際に挙げられるテーマですが、家康からの篭絡を断った際に彼はどんな高禄でも徳川に仕える気などないと言っていたことから、あくまで反家康という気持ちがあったのは否定できないでしょう。

 

だからといって、豊臣軍が全くもって勝算がなかったかといえばそんなことはないと思います。

後に記された大阪の陣の記録によれば、豊臣軍は寄せ集めとはいえ存外強く一筋縄ではいかなかったとのことです。

 

夏の陣で信繁は他の味方部隊とは距離をとっていました。

初めから家康の意表を突くという考えの元で行動していたように思えます。

 

毛利勝永や木村重成、それに後藤又兵衛などは正面きって徳川軍にぶつかった結果、徳川軍の防御を限界まで削っています。

 

そこに幸村が狙いすましたかのように現れたことは、家康にとって完全に予想外の出来事でした。

幸村が大阪城の守りについてないことを考えても、私には幸村が家康の意表を突くという確かな勝機を持って戦に臨んでいたと思います。

 

しかし、残念ながら家康を討ち取ったとしても豊臣家は諸大名からも見限られている存在。

その命運は遅かれ早かれ幕府によって挫かれるという事実は変わりそうもありません。

 

それでも家康に一矢報いたいという信繁の思いが、現在まで多くの人に愛される所以なのでしょう。

この真田幸村が最期を迎えた大阪夏の陣の様子を薩摩藩主であった島津忠恒が手紙に記しています。

 

「真田日本一の兵(つわもの)」

 

忠恒が書いたこの手紙の影響もあり、真田幸村の名は後世まで語り継がれることになります。

 

忠恒は大坂の陣の現場にはいなかったとされるのですが、現場にいなかった忠恒がこのように称えるという事は、伝え聞いた幸村の活躍が尋常ではなかったという事でしょう。

 

真田幸村といえば、大人気となった2016年の大河ドラマ『真田丸』ですが、真田丸はU-NEXTというサービスを利用すれば無料で観ることができます。

 

興味があれば下記の記事を参考にしてみて下さい。

 



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