奇兵隊と功山寺挙兵!!高杉晋作の回天義挙を詳しく解説!!

2019-12-26

奇兵隊と功山寺挙兵。

回天義挙とも呼ばれるこの挙兵はいったいどのようなものだったのでしょうか?

 

保守派の椋梨藤太が藩政の主導権を握る状況に、圧倒的に不利な状況で挑んでいった高杉晋作。

今回は晋作が作った奇兵隊のことも含めて、この功山寺挙兵を見ていきたいと思います。

 

窮地の長州藩で下関の防衛に付く

馬関戦争というイギリス・フランス・オランダ・アメリカ連合軍との戦いで、長州藩は手痛い敗北を喫します。

完全敗北ともいえる敗戦でした。

 

この馬関戦争の後、長州藩は高杉晋作を下関防衛の司令官に任命します。

 

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しかし、惨状を知った高杉晋作は、これまでの武士中心の軍隊では役に立たないことを痛感し、もっと勇敢な新規の軍隊の必要性を感じます。

この時の想いが奇兵隊創立につながっていきます。

 

奇兵隊ってどんな軍隊?

これまでの軍隊は、正規の武士によって編成されていました。

しかし高杉晋作は尊王攘夷の思いがあれば、身分のいかんを問わず、様々な身分の者でも有能で士気が高い者を登用する部隊を構想しました。

 

身分に関係なく、志のある人が集まった部隊。

 

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それが奇兵隊です。

 

これらは長州諸隊を奇兵隊とされていますが、奇兵・鷹懲・集義・遊撃など、161の部隊から構成されていて、その数は最大時5千人とされています。

なかでも高杉肝入りの奇兵隊は、下級武士40%、農民40%、町人4%、僧侶4%で構成されている精鋭部隊でした。

 

ただ、奇兵隊士は軍功めまぐるしい功績ながら、その身分や扱いに関して条件が悪く、高杉は彼らをあくまで兵力としてしか評価していなかったようです。

 

あくまで戦うための戦力。

高杉晋作はそう割り切っていたのかもしれません。

 

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軍監を務めたのは後の総理大臣 山縣有朋

奇兵隊は身分の違いがあったため長州正規の隊と衝突することも多く、やがて教法寺事件で隊士の斬殺事件が起き、高杉晋作は結成わずか三か月で奇兵隊総督を退任させられています。

 

その後、第一次長州征伐が起こり、長州藩では「幕府にひたすら謝罪して許してもらおう」という考えの椋梨藤太が藩政の主導権を握るようになります。

 

このままでは長州藩が潰れてしまう・・・。

そう考えた高杉晋作は、政治の主導権を奪い返すために下関の功山寺で挙兵(回天義挙)します。

 

その時、奇兵隊の実権を握っていたのは軍監の山形狂介(後の有朋)。

 

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この時、山形率いる奇兵隊は挙兵に参加せず、決起する高杉を諭したと言われています。

 

自分が作った部隊が挙兵に加わらない。

何とも孤独な高杉晋作の状況でした。

 

しかし、そこに共に立ち上がろうと駆けつけてきた部隊があります。

高杉の幼な馴染みだった伊藤俊輔(博文)率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊の84名です。

 

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高杉晋作と伊藤博文

 

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5000人いた過去の部隊からすれば悲しい程少ない戦力ですが、この明らかな劣勢の中、長州の軍隊と高杉晋作は対峙します。

本来晋作は、師である吉田松陰が日本の将来の為に脱藩した12月14日に決起したかったようですが、実際は翌日にずれこんでしまいます。

 

この時は晋作自身、死を覚悟していたようで、白石正一郎の弟である大庭伝七に遺書を託しています。

 

「長州男児の肝っ玉をお見せしよう」という名言を残して出陣

功山寺には、都落ちした三条実美ら攘夷派の公家が潜伏していました。

彼らの前で高杉は「是よりは長州男児の肝っ玉をお見せする」と宣言し、下関で奉行所を制圧すると、あっと言う間に下関を占領します。

 

さらに部隊からの精鋭18名を選出して決死隊を編成。

三田尻で丙辰丸など軍艦3隻を奪取するなど、高杉率いる反乱軍は次々に奇跡を起こしていきます。

 

ここで、ずっと戦況を様子見していた山縣狂介も、ようやく重い腰を上げ、奇兵隊も共に反乱軍に加わりました。

年明けて慶応元年1月6日、大田・絵堂の戦いにて反乱軍は藩軍に勝利し高杉によるクーデターは成功します。

 

まさに回天義挙。

時代の流れをひっくり返した高杉晋作の正義の挙兵でした。

 

椋梨藤太を排除

これによって長州俗論派は淘汰され、代表格の長州藩重臣、椋梨藤太は処刑されることになります。

椋梨藤太は処刑の際、「私一人の罪ですので、私一人を罰して下さい」と嘆願し、上級武士でありながら切腹ではなく斬首となります。

 

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高杉晋作はこの義挙の後、「艱難ヲトモニスベク、富貴ヲトモニスベカラズ」という言葉を残しています。

「人間と言うものは生死を賭けて目標に向かって戦っているときは共に美しくあれるものだ、だが一旦事を成し、目標を失うと途端にお互いを蹴落とそうとする」という意味だと言われています。