仙石秀久ってどんな武将?性格や逸話、功績を分りやすく解説!

2019-12-26

今回は豊臣秀吉の古参の家臣として活躍した仙石秀久についてです。

仙石秀久は全くと言っていいほど無名の武将でしたが、漫画「センゴク」の主人公に取り上げられたことで知名度が上がりました。

 

では、仙石秀久はどんな活躍をして、どんな功績があったのか?

今回は仙石秀久の生涯を簡単に分りやすく解説します。

 

仙石秀久の功績や逸話を簡単に解説

出身国美濃国(岐阜県)
生没年1552~1614年

(享年63歳)

主な経歴淡路国の洲本城主
小諸藩の初代藩主

 

【秀久の主な功績と逸話】

  • 少年の頃より豊臣秀吉に仕え、スピード出世した古参の家臣!
  • 戸次川の戦いで大失態!領地没収、身分を剥奪され高野山に追放される!
  • 全てを失った状態から大名にV字回復。
  • 馬印は「無」、鈴鳴り武者の異名を持つ。
  • 箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇から付けられたと言う説がある。
  • 秀吉亡き後は徳川家に仕え、徳川秀忠付きの家臣になる。
  • 蕎麦切りを発案!現代の蕎麦のルーツをつくる。

 

豊臣秀吉の寵愛を受けた最古参の家臣、出世も早かった!

仙石秀久は美濃国の斎藤龍興(斎藤道三の孫)に仕えていました。

龍興は稲葉山城の戦いで織田信長に敗れると、伊勢の長島へと逃亡します。

 

この時、龍興の家臣だった秀久はまだ14歳。

その風貌を信長が気に入ると、秀吉(木下藤吉郎)の馬廻衆に抜擢されます。

 

それからは秀吉元で合戦に挑み、小谷城攻めなどで活躍。

 

23歳で近江国野洲の1千万石の領主。

32歳で淡路国5万石の城主。

34歳で讃岐国高松10万石の城主になります。

 

秀吉の最古参の家臣の中では一番早い出世でした。

 

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戸次川の戦いで大失態!秀吉が大激怒して改易される

ここまではエリートコースを歩むかのように順調に出世していた秀久。

しかし、秀吉が行った九州征伐で転機が訪れます。

 

秀久は九州の島津討伐の先陣役に任命され、3千の兵を率いて豊後に到着します。

 

この時、秀吉は毛利と小早川の軍勢を九州に布陣させ、プレッシャーを掛けて島津軍の士気を下げる作戦をとっていました。

そして、士気が下がったところに自分が大軍の率いて上陸すれば島津も戦意をなくすと考えていました。

 

そのため、秀久に出していた指示は「本隊が来るまで待機するように」というもの。

しかし、秀久は手柄を立てたいばかりに、焦って独断で兵を動かしてしまいます。

 

これが、天正14年12月に起きた戸次川の戦いです。

 

秀久は戸次川を渡って島津軍に戦を仕掛けます。

迎え撃つのは島津家でも戦上手として知られた島津家久。

(信長の野望でも戦闘力が鬼のように高い武将)。

 

家久は「釣り野伏(つりのぶせ)」という島津家のお家芸を使って秀久の軍を完膚なきまでに叩き潰します。

※釣り野伏というのは、囮の軍隊がわざと退却して相手の兵を引き寄せ、隠れていた軍勢と一緒に三方から挟み撃ちにする策略です。

 

当初は豊臣軍が優勢に進めていましたが、徐々に士気の精彩を欠き、次々と島津軍に打たれてしまいます。

この戦で、長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)、十河存保(そごうまさやす)など1000人余りの命が失われてしまいました。

 

秀久の無謀な作戦で息子を亡くした四国の戦国大名・長宗我部元親は、これ以降、人が変わったように生活が荒れてしまったと言います。

 

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島津軍に敗れた秀久は讃岐国に逃亡。

これに激怒した秀吉は、秀久の領地を召し上げ、身分剥奪の最も思い刑に処し、高野山に追放し改易処分にしました。

 

10万石の大名から、一気にどん底に突き落とされてしまった秀久。

しかし、ここから秀久の波乱万丈な人生が再スタートします。

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無の心で再起をかけ、全てを失った状態からV字回復!

戸次川の戦で大失態をして高野山に追放された秀久は、1590年小田原征伐の際に徳川家康の仲介で秀吉の元に参陣します。

そして家康の軍に混じって戦に参加します。

 

この時の秀久の姿は、白練りに日の丸の陣羽織。

それに無数の鈴を付け、馬印は「無」の文字をあしらっていました。

 

秀久が動くたびに鈴の音が鳴り響き、敵に自分の存在をアピールするかのような格好。

何としてでも手柄を上げて目ちたいという、秀久の覚悟のあらわれでした。

 

このエピソードで、秀久は鈴鳴り武者として語り継がれていきます。

 

小田原征伐で武功を挙げた秀久は秀吉との謁見を許され、信濃小諸藩に5万石の領地を与えられます。

これで見事大名に返り咲くことができました。

 

箱根にある「仙石原」の地名は、この時の秀久の武勇を讃えて付けられたと言われています。

 

秀吉の家臣の中には、秀久以外にも改易された大名が沢山いました。

しかし、復帰を望んだ武将の多くは逆に秀吉の怒りを買い、失敗に終わっています。

 

戸次川の合戦で逃亡したことから臆病で武将らしくないというイメージが付いてしまった秀久。

しかし秀吉が再び大名にしているところをみると、武将としての人望は厚かったのかもしれません。

 

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徳川家でも大活躍!秀忠付きの家臣に出世!

秀久は秀吉亡き後、小田原征伐で恩がある徳川家康に接近し、1600年関ヶ原の戦いでは東軍に味方して勝利しています。

 

家康の息子・秀忠が関ケ原の戦いの際、上田城攻めで足止めをくらい到着したのは戦が終わって5日後の事。

秀忠の失態に激怒した家康は、秀忠と会おうとはしませんでした。

 

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その時、秀久の計らいで秀忠は家康と会う事を許されます。

秀久は家康、秀忠両人からの信頼を得て、秀忠付きの家臣となりました。

 

外様大名ながら秀久の活躍は見事なもので、その扱いもかなり優遇されていたそうです。

そして、信濃小諸藩の初代藩主にまで出世し、どん底の人生から這い上がった武将として語り継がれています。

 

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蕎麦切りを発案!現在の蕎麦のルーツを作る!

小諸藩主になった秀久は、殖産興業政策に力を入れ、小諸で取れる蕎麦に目を付けます。

当時は蕎麦がきと呼ばれ、丸いお餅のような形をしていました。

 

これをもっと食べやすく出来ないかと考えだされたのが蕎麦切り。

蕎麦を細長く切った現在の蕎麦の原型です。

 

蕎麦切りを作る事で、領民との親睦を深めた秀久は、仙石さんと呼ばれ慕われました。

こうして今に伝わる、「信州そば」「小諸そば」が出来上がります。

 

まとめ

漫画「センゴク」の登場で、仙石秀久は歴史ファンに愛される人物になりました。

 

鈴鳴り武者として自分をアピールし、その存在感を周りに見せ付けた秀久。

歴史的に見ると地味な存在ですが、実際は大きな野心を持ったド派手な武将だったようです。