五稜郭のボス・榎本武揚の評価が低いのは何故?黒田清隆との関係を解説!
あなたは戊辰戦争という言葉を知っていますか?
戊辰戦争は明治維新最後の戦争で、新選組副長の土方歳三もこの戦いで命を落としています。
そして、戊辰戦争の張本人が榎本武揚であり、最後まで明治新政府に抵抗し続けた人物です。
しかし、榎本武明は戦争に負けた後、さぞかし不遇な人生を送るかと思いきや、新政府においても大臣などの要職を歴任し、華族にまで列せられます。
今回はこの不思議な榎本武揚という人物に迫ってみましょう。
幕府に期待された超秀才
榎本武揚は明治維新のおよそ30年前に、江戸の下谷(今の御徒町あたり)で生まれました。
幼い頃から頭が良くて、幕府の昌平坂学問所で漢学や儒学を学び、本所の英龍塾で江川太郎左衛門から蘭学を学びます。
この江川太郎左衛門というのは伊豆の韮山に日本発の反射炉を建造し、大砲や戦艦に活用できる良質な鉄の鋳造に成功した人物。
韮山の反射炉は世界遺産にもなっているので、知っている人も多いかもしれません。
また、アメリカから帰国したジョン万次郎の私塾では英語を学び、若くして英語やオランダ語などの語学に堪能で、様々な学問を学んだ期待の人物であったようです。
幕府は海軍力増強のために長崎に「海軍伝習所」を創設しますが、その一期生が勝海舟、二期生が榎本武揚です。
ペリー来航以降、西洋の技術の導入を急務と考えた幕府はオランダに留学生を派遣することを決定します。
そして、そのメンバーに選ばれたのが榎本武揚。
武揚はオランダに渡り、海軍のことや政治のことなどを学び、実際に起こったデンマーク戦争なども体験しています。
[cc id=4417]
遅れてきた英雄
1867年に最新の技術と学問を身に着けて帰国した武揚ですが、日本ではすでに倒幕の機運が最高に高まり、幕府は崩壊寸前になっています。
軍艦奉行の勝海舟に迎えられ、軍艦頭並に登用された武揚ですが、ほどなく大政奉還から王政復古の大号令が発せられて鳥羽伏見の戦いが勃発。
新政府軍(官軍)と幕府軍(賊軍)は戦争状態に突入してしまいます。
武揚は開陽丸に乗船し今の大阪沖に展開しますが、行き違いで乗船した15将軍・徳川慶喜が大阪を出発して江戸に戻ってしまいます。
置き去りになった武揚は大阪城にあるお金や武器などをもうひとつの戦艦「富士山丸」に積み込んで江戸に帰還しています。
この置き去り事件を武揚は生涯根に持っていたようです。
関連記事→徳川慶喜が大政奉還を行った理由とその評価!谷中の墓所も紹介!
榎本脱走艦隊
江戸に帰還した武揚は海軍副総裁に任ぜられます。
しかし、明治新政府との交渉は進み、江戸城の開城や自慢の戦艦「開陽丸」に引渡しなどが決まってしまいます。
引渡しに断固反対し続けた武揚は、とうとう、勝海舟や幕府の人たちの説得を振り切って開陽丸を勝手に持ち出して脱走を図ります。
開陽丸をはじめとした戦艦4隻と輸送船4隻の計8隻に新政府と戦った彰義隊の生き残りやフランス軍の幕府軍事顧問などを交えて約2000人が乗船し行動を共にしました。
途中、悪天候などで2隻を失いますが仙台までなんとかたどり着きます。
しかし会津の戊辰戦争はすでに終決。
奥羽越列藩同盟も崩壊、新政府に対抗するすべは仙台の地ではすでに失われていました。
武揚は仙台を離れてさらに北上、蝦夷地(今の北海道)に向かいます。
[cc id=4417]
幻の新国家「蝦夷共和国」
武揚は函館に上陸し、五稜郭というお城に入城します。
そして、松前城も占領し、この地において、江戸幕府でも明治新政府でもない、自分たちの新しい国家「蝦夷共和国」の樹立を宣言し、選挙により初代総裁に就任します。
しかし、「蝦夷共和国」は新国家として認められようとして、アメリカやフランス、オランダなどの諸外国に懸命に働きかけを行いますが、残念ながらどこの国からも認められることはありませんでした。
実は、明治新政府の日本もこの頃は諸外国には認められていませんでした。
なので、榎本武明が作った「蝦夷共和国」が国家として認められる訳はありません。
やがて新政府軍が五稜郭に攻め込み、敗れた武揚は明治新政府に無条件降伏することになります。
黒田清隆に助けられ新政府で活躍
新政府に捕らえられた武揚は投獄されますが、その能力を惜しんだ黒田清隆らの働きにより、明治5年、罪を許され政府の役職につくことになります。
最後まで新政府に逆らった人物ではありますが、堪能な語学をはじめその能力が新政府には必要だったようです。
新政府の役職についた武揚は、まずは北海道開拓使として職に就き、その後、明治7年にはロシア特命全権公使として、千島樺太交換条約の締結に成功。
その後も、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任し数々の功績を残します。
[cc id=4417]
活躍のわりに評価が低いのはなぜ?
このように、数々の功績を残し幕末から明治にかけて大活躍した榎本武揚ですが、それほど取り上げられることもなく、あまり評価も高くないのはなぜなのでしょうか?
それは、「幕府側について新政府と最後まで戦った割には、今度は寝返って新政府の役職についた。」という、変節者だと思われているかもしれません。
福沢諭吉などもその著書のなかで「二君に仕えた不義理者」と記しています。
しかし、明治維新の激動の中で、榎本武揚という人物の能力と行動力は不可欠のものであり、変節をしたのではなく、形をかえてでも自らの目指す理想の国家作りに貢献したのではないかとも感じられます。
榎本武揚の行動をとおして、明治維新の意味をもう一度考えてみるのもいいかもしれません。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません