【三好長慶】天下人が松永久秀に煽られ精神崩壊→最期を迎えるまで!
突然ですが、信長がまだ桶狭間で今川義元と戦っている頃、当時天下と呼ばれていた五畿内のうちの山城国・河内国・大和国・和泉国、に加え丹波、淡路、播磨、讃岐、遠くは伊賀、若狭まで影響力を伸ばした勢力があることをご存知でしょうか?
その勢力というのが三好氏。
そしてその中心人物が、今日ご紹介する三好長慶という人物です。
長慶は京都を牛耳っていた細川政権に引導を渡して畿内に一大勢力権を築いた人物。
当時は天下一の有力大名と呼ばれていました。
しかし畿内に一大勢力圏を築いた英雄である一方で、天下人に必要な非情さというものがなく、織田信長になれなかった人物と言われることもあります。
これは一体どういうことなのでしょうか?
今回は三好長慶の生涯について詳しく解説します。
幼少期に父を戦乱の争いで亡くす
三好長慶は1522年、細川晴元の重臣であった三好元長の嫡男として生まれます。
ちょうどその頃は両細川の乱と呼ばれる内乱が起きていました。
元長は中嶋の戦い、また大物崩れにおいて活躍。
この乱においての功労者となるのですが、これが思わぬ火種を生むことになります。
元長は両細川の乱の最中に対立していた木沢長政のこもる城を攻めます。
しかし、木沢長政の討滅が間近に迫ったところで突如背後で数万の一向一揆が蜂起。
元長はこの一揆に巻き込まれて自害して果てます。
享年は32歳でした。
実はこの一向一揆の蜂起依頼を本願寺証如に行った人物こそ細川晴元であり、彼は自らの手を汚すことなく乱の功労者であった三好元長を始末したのです。
この時の長慶は10歳の少年で、当時は堺にいましたが、一向一揆の襲来に伴い母に連れられて阿波に逃げることになります。
一揆に巻き込まれての父の死は、長慶に戦国時代というものがどういう時代かを教えるのにはこれ以上ない出来事でした。
目には目を!一揆を収めるために一揆を起こす!
ちなみにこの時に晴元の策略で扇動した一揆ですが、晴元の手にも収拾がつかなくなり「享禄・天文の乱」という大きな一向一揆にまで発展します。
こうして晴元は山科本願寺とも戦う事になります。
なあにやってるんですかねぇ……。
この状況を打開するべく、細川晴元と木沢長政は一向一揆を収めるために京都と山城の法華宗徒から編成された法華一揆を蜂起させ、「天分法華の乱」と呼ばれる一揆が起こります。
つまり、一揆を鎮めるために一揆を起こした訳です……(呆れ)
晴元は山科本願寺を焼き討ちし、石山本願寺に移転した一向一揆とも戦いますが返り討ちに遭って淡路に亡命してしまいます。
あーもうむちゃくちゃだよ。
このように一向一揆と悪戦苦闘してる晴元ですが1533年に和睦をすることに成功します。
そしてその時和睦を仲介した人物こそがまだ12歳で元服もしていなかった三好長慶でした。
自分の父を殺すための一揆を鎮圧できない晴元を助けるとか菩薩の心かな?
逆に晴元からすると元長を殺すため自分がけしかけた一揆を元長の息子に収めてもらったことになりますが、情けないにも程がありません…?
非情さのない戦上手!戦いに勝っても追い込まないのが流儀
その後、長慶は晴元の部下として本願寺と戦うなどして活躍します。
ですが、もちろんこのまま晴元の部下として一生を終わるつもりはありませんでした。
1541年には独自に菟原郡都賀荘から段銭徴収を行い、晴元から停止を命じられますがそれを無視。
晴元と対立姿勢を強めていきます。
翌年の1542年には父・元長の仇敵である木沢長政が反細川勢力に手を貸したことを理由に太平寺の戦いで一戦を交え討ち取ります。
さらに1548年には細川氏綱らと組んで細川晴元と三好政長らと江口城の戦いに見事勝利。
三好政長を討ちとります。
ここに細川政権は崩壊し、細川晴元と将軍の足利義輝は近江坂本に逃亡。
三好長慶は名実ともに畿内の実力者になります。
ところが長慶は不思議なことに晴元や足利義輝を執拗に追撃することはなく和睦しています。
その後長慶は朝廷に献金を行ったり土塀の修理などをしたりと京の都の回復に努めます。
1551年には京都奪回を狙う足利・細川軍と戦い勝利しますが、やはりこの時も和睦しています。
このあたりが信長と違う寛容さの持ち主と言われる所以でもあります。
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松永久秀に翻弄された悲しい最期
1560年頃は三好家の全盛期でしたが、1561年4月に和泉を任せていた弟・十河一存が亡くなり、三好家の繁栄にもほころびが見え始めます。
1562年にはもうひとりの弟の三好実休が討死に。
さらに三好家が弱体化していると見抜いた畠山家と六角家が三好家に攻め込んできます。
この時は部下の松永久秀が返り討ちにするものの、長慶は自ら軍を率いることができないほどに体調が悪くなっていました。
さて、この三好長慶の部下、松永久秀という人物なのですが、非常な野心家で後には信長からも危険視されたほどの男でした。
あまりに有能だったので長慶も信頼して重用していましたが、久秀の野心は長慶が思っていた以上。

三好家のために働きつつも三好家の弱体化にいち早く気づいた久秀は三好家の切り崩しを始めます。
まず、久秀は長慶に弟の安宅冬康が謀反を企んでいると諫言。
これを信じた長慶は冬康を殺してしまいます。
この頃の長慶は頼りにしていた弟が次々に亡くなり、心身の状態が正常ではなかったようです。
そのため、久秀の言葉に疑心暗鬼になってしまったようです。
冬康に謀反の企てなどなかったことに気づいた長慶はさらに病状が悪化。
2ヶ月後の1564年7月4日、42歳で亡くなります。
信長に先んじて天下人となった男のなかなかに気の毒な最後でした。
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三好長慶の個人的批評
こうして見ると、弱肉強食というイメージのある戦国時代にあって、三好長慶はこれまで戦ってきた相手や仇敵であっても許したり和睦したり、手を貸したりなど、感情や敵意を水に流して行動するタイプの武将のようです。
簡単そうに見えてなかなか難しいことですが、そういう柔軟さがあったからこそ長慶は複雑な畿内情勢の中での天下人になることができたのかもしれません。
ただ、本当に天下を取って三好家の勢力を盤石なものにしようと思ったら、徹底的に相手を追い詰める非情さも必須なのだと思います。
三好長慶が死んだことでそれまでまとまっていた畿内は再び戦乱の世に逆戻りすることになりますが、もし長慶が健康で長生きをしていれば天下統一を目指す信長の前に一大勢力として大きく立ちはだかることとなったかもしれませんね。
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