戦国時代は「乱世」や「下克上」という言葉で表現されることがあります。

しかし戦国広しといえど、今日ご紹介する松永久秀ほどその言葉を体現した人物はいないのではないでしょうか。

 

乱世と言いつつも、なんだかんだ武士の情けや忠義といったものが重視された時代において、ここまで裏切りや悪事を重ねた武将も珍しいです。

その節操のなさから付いたあだ名は「乱世の梟雄(きょうゆう):残忍で強く荒々しい人物のこと」。

また、織田信長に「常人とは成し遂げられない悪事を三つも行った人物」とまで言われた人物で、しかもその信長をも2回も裏切っています。

 

目的のためなら手段を選ばないある意味で究極の肉食系武将、今日はそんな松永弾正久秀の人生をご紹介いたします。

 

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松永久秀の波乱の生涯を簡単に解説!

松永久秀の肖像画

【出身国】山城国(今の京都府)、摂津国(今の兵庫県東部)など諸説あり。

【生没年】1508~1577年 享年69歳

【主な経歴】三好長慶の右筆(書記官)→三好家の家宰→織田信長の配下

 

【ざっくりまとめるとこんな人】

  • 斎藤道三・宇喜田直家らと並ぶ戦国三大悪人の一人。
  • 天下人三好家の家政を任されるほどの行政手腕と教養を持っていた。
  • 有力者を次々と亡き者に。のし上がっていく姿はまさに下克上の権化。
  • 最後は織田信長に逆らい、名物茶器とともに大爆死。
  • 官位をとって松永弾正(だんじょう)と呼ばれることがある。

 

松永久秀は20代前半から三好長慶に仕え、外交・政治的手腕を発揮して重用されるようになりました。

やがて主君の長慶が幕府管領細川晴元を追い落として畿内の実権を握ると、久秀もまた三好家の家宰となって屋台骨を支えます。

 

そんな中、三好家のために粉骨砕身働いていた久秀に野心が芽生え始めたのは、三好家の相次ぐ肉親たちの死によるものでした。

 

長慶の三人の弟、そして嫡男までもがわずか3年のうちに相次いで亡くなったのです。

そして彼らの後を追うように長慶も亡くなり、後継者に指名されたのは長慶の甥だった三好義継でした。

 

久秀はこの15歳の少年を操って実権を握ろうと取り込みを図りますが結局は失敗。

義継を味方につけた三好三人衆らと畿内を巻き込んだ内乱状態に発展します。

 

そんな時、颯爽と歴史の表舞台に登場したのが織田信長でした。

 

 

信長の威勢を頼りにした久秀はさっそく配下となり、三好三人衆らを追い落として本領安堵を認められます。

 

しかし畿内を掌握した信長も、周囲の敵対勢力に挟み撃ちにされ絶体絶命のピンチに陥りました。

ここで何と久秀は信長を助けることもせずに反旗を翻したのです。

その後、信長は窮地を脱して息を吹き返し、久秀は名物茶器を信長へ献上することでなんとか許されて事なきを得ます。

 

それでも久秀の反骨の心は収まることはありませんでした。

越後の龍こと上杉謙信が信長征伐に乗り出した!という報に接するや、またもや謀反の兵を挙げます。

しかし、ここぞという時に謙信が病に倒れ、信長はまたしても窮地を脱したのです。

 

2回めの裏切りにも関わらず、信長は久秀に対して申し開き(言い訳)をするための使者を送ります。

2度も信長を裏切って無事でいられるはずがない・・・。

そう思った久秀は今度ばかりは降伏せず、信長が欲していた名物茶器「平蜘蛛の釜」と共に火薬で木っ端みじんになって爆死します。

 

三好家の祐筆時代の久秀

個人的に松永久秀という人物は戦国時代においては結構知名度の高い人物だと勝手に思っているのですがその割に生い立ちについて詳しいことはよくわかっていません。

生年についても1508年だとか1510年だとかいろんな説が唱えられています。

出自についてもそのような感じで山城の国の土豪だったとか三好長慶のお庭番だったのを引き立ててもらったとか果ては摂津の百姓説まであって曖昧です。

 

はっきりと歴史の表舞台に名前が出てくるのは1540年のこと。

円福寺、西蓮寺、東禅坊の各講衆に寄進する内容の書状に松永久秀の名前が出てきます。

 

当初は奉行職として働いていたようで、堺の豪商の購入地安堵判物にも松永久秀の署名が登場します。

だからといって「なるほど久秀って文官だったのか」と考えるとところがどっこい!

 

1542年には木沢長政という人物との戦いにおいて指揮官として軍配を振るって三好軍の大将として戦う武官としての一面もありました。

 

実はこの背景として久秀の雇い主であった三好長慶という人物は当時としては珍しい実力主義の登用制度を重視していて、例え出自が低い家柄であっても実力があれば取り立てるという方針をとっていました。

前述の久秀の出自がよくわかっていないのもそれが原因です。

 

しかし逆を言えばおそらく久秀もそのような低い身分から叩き上げで出世してきた人物の一人だったということの証左だといえるかもしれません。

三好家の出世頭となり数々の業績を残す

それからも三好家のため粉骨砕身して働いていた久秀。

そんな彼に1559年、大和国(現在の奈良県)を平定するようにという命令が下ります。

 

当時の大和は多くの小豪族が相争うような状態でその中には柳生家や筒井家といった家もありました。

久秀は大和の国人たちの協力も得て大和を平定。

大和の国一国を与えられ、翌年には信貴山城に天守閣を築く許可をも与えられるなど、もはや三好家の家臣というより一国の大名といっても良いほどの権力を手に入れます。

 

……出自不明から始まったことを考えるとかなりの大出世ですよこれは。

 

この頃の久秀の偉業はほかにもいくつかあります。

ちょっと多いので箇条書きにしておくと

 

  • 櫓と屋敷を組み合わせた全く新しい城郭、いわゆる天守閣を日本で初めて築く※諸説あり
  • 明朝の価値のある美術品や茶器のコレクションを並べ茶会を行う
  • キリシタンを排除してくれという比叡山の仏僧に対し、キリシタンと宗論を行わせる
  • 『黄素妙論』という性行為の教科書を作る
  • 毎日お灸を欠かさない
  • クリスマスを理由に休戦を行ういわゆるクリスマス休戦を日本で初めて行う

などなど……。

特に、織田信長より前に多聞山城や信貴山城に天守閣のような城郭を築いている部分に注目です。

 

三好家に内乱を招く?

長らく三好家の発展のため骨を折ってきた久秀に転機がやってきます。

主君として仰いできた三好長慶は少々神経衰弱を持っていたのですが、十河一存、三好実休、三好義興といった長慶の肉親が、たったの2年の間に次々に急死していき、ますます病状が悪化してしまったのです。

 

「しかしこんなに立て続けに肉親が突然に亡くなる・・・?」こう思ってしまうのは私が陰謀論が好きだからでしょうか?

(久秀が後ろで手を回していたのでは?という説もあります。)

 

さらに1564年、追い討ちをかけるように久秀は病状の悪化で正常な判断を失っていた長慶に対して長慶の弟の安宅冬康が謀反を企てていると讒言。

その結果、長慶は久秀の讒言を信じて弟の冬康を抹殺してしまいます。

 

しかし、それが間違いだったと分かると、さらに病状が悪化してしまいそれから2ヶ月後に亡くなります。

翌年の1565年には松永久秀の嫡男、久通と三好三人衆が軍勢を率いて室町御所の足利義輝を襲撃する永禄の変が勃発。

 

その後は三好三人衆とも手切れになり三好家は内乱状態となるのでした。

いわゆる久秀による東大寺大仏殿焼き討ちが行われたのもこの時期ですね。

 

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信長の家臣としても活躍

しかし、そのうち三好家の内乱どころではない事態になります。

それが織田信長の上洛。

 

1568年9月、織田信長は京都から逃げ出していた足利義昭を擁立して上洛。

圧倒的な兵力で京都にやってきたのです。

 

これを知った久秀、信長と戦うのかと思いきや……。

「信長殿~お待ちしておりましたぞ~~」とばかりに信長に降伏。

 

実はこの頃の久秀は三好三人衆に信貴山城を落とされるなど劣勢に立たされており、上洛を目指す信長と事前に交渉をすることでこの劣勢を挽回しようと考えていたのです。

 

 

本当に計算高い人ですね……。

 

さらに「九十九髪茄子(つくもなす)」という茶器を差し出すなどして信長に忠誠を誓います。

これには第六天魔王さま(信長)もにっこり。

 

義昭の直臣たちが猛反対する中、久秀を家臣に加えさらに大和一国は「切り取り次第(奪い取った領地は自分のものにしていいよという意味)の許可も与えます。

 

このあと久秀は金ケ崎の退き口で知られる朝倉攻めに参戦。

金ケ崎の戦いでは秀吉の撤退戦での活躍が注目されますが、この時、久秀は退路であった朽木谷の朽木元綱を説得して味方につけるなど、信長の窮地を救う活躍を見せています。

 

武将としては普通に優秀な人なので各方面で活躍し、このまま信長の家臣としての出世も十分に見込めました。

しかし、久秀は信長の下で一生を終える気はなく、次のチャンスを虎視眈々と狙っていたのでした。

信長への最初の裏切り

久秀が信長に最初に反旗を翻したのは1572年。

ちょうどこの頃、足利義昭の号令の元信長包囲網が形成されていて武田信玄や朝倉義景などがこの包囲網に加わっていたのです。

久秀もこれを好機とばかりに三好義継や三好三人衆とともに義昭側に付き、信長との対立姿勢を明らかにしていきます。

 

かし、ここで久秀の目論見が外れます。

包囲網のメンバーである朝倉義景や浅井長政は姉川の戦いで信長に大敗。

 

さらにこの包囲網の一番の大勢力だった武田信玄は1573年に西上途中で病死して武田軍が撤退。

7月にはこの包囲網の号令を出した足利義昭自身が槇島城の戦いに敗北して追放され、三好義継も敗死、三好三人衆も敗北して織田家の大軍が久秀の本拠地である多聞山城へと押し寄せたのです。

 

いかに戦上手な松永久秀も織田信長の大軍に攻められてはひとたまりもありません。

久秀は降伏すると、信長は意外にもこの降伏を受け入れました。

 

信長は自分を裏切った相手には苛烈な罰を与えることもあるため、久秀はこの信長に判断にひとまず安心しましたが、しかしその代わりに多聞山城は没収となり、大和の国の支配権も信長の家臣・塙直政に奪われてしまいます。

 

直政はこのあと石山合戦で討ち死にするのですが、その後宿敵であった筒井順慶が新たに大和の統治者となったり、また多聞山城が信長の命令により村井貞勝や筒井順慶によって破却されるなど久秀にとっては面白くない時期が続きます。

 

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名物茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」と共に信貴山城で自害

信長の下でストレスを溜めていた久秀。

そんな久秀に再び信長を倒すチャンスが訪れます。

 

1574年京都を追放され毛利氏に身を寄せていた足利義昭が再度信長包囲網を構築しようと全国の諸大名に書状を送ります。。

これは第三次信長包囲網と呼ばれるのですが、病死した武田信玄の息子の武田勝頼、信長と和睦と対立を繰り返していた本願寺だけでなく、中国地方の毛利輝元やまた越後の上杉謙信も参戦します。

 

この機会が最後のチャンスと考えた久秀は、1577年に本願寺攻めを勝手に離脱し信貴山城に篭城。

信長と対立する構えを見せます。

 

信長公記によるとこの時信長は理由を問いただそうと使者を送ったものの、久秀は使者に会おうとしなかったと言われています。

 

信長は織田信忠を総大将として羽柴秀吉や細川藤孝、明智光秀、また筒井順慶といった戦国オールスター軍勢を中心とした総勢40000の兵で信貴山城を包囲しつつ、平蜘蛛を差し出せば命は助けるというアメとムチで久秀に降伏を促します。

 

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前回の裏切りの時といい、信長は久秀に対して甘々過ぎると思いませんか?

実は、信長はそれだけ久秀の能力や影響力を高く買っていたのですが。

 

しかし結果的に久秀はこの提案に対し「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と拒否。

 

信貴山城に自ら火を点け、平蜘蛛を叩き壊してから息子久通とともに自刃します。

 

生年が定かではないため享年も不明ですがおそらく68~70ではないかと言われます。

昭和時代に平蜘蛛に火薬を詰めて爆死したという話も生まれましたがおそらくこれは後世の創作ではないかと言われています。

 

江戸時代においては反面教師に?

松永久秀といえば斎藤道三や、宇喜多直家と並んで三大梟雄という不名誉な代名詞としてと取り上げられることの多い人物です。

 

特に幕藩体制の安定化した江戸時代においてさらにそのイメージが加速化したようで、実際に久秀が行ったわけではない悪事なども全て久秀が主犯のように取り扱われたり裏切りぐせのある人物として描かれたりしています。

 

そのため現代ではそうした動きを見直そうという動きもあります。

「久秀はそんな悪くない!」「むしろ忠臣なんだ!見直すべきだ!」という人もいるそうです。

 

しかし、筆者はこの松永久秀という人物は悪人でも善人でもなく、ただ生きることに貪欲で全力な人だったのではないかと思えてなりません。

 

久秀は生きることに全力だったがゆえに多くの偉業を産み、光を放ったのではないでしょうか?

また、生きることに全力だった久秀だから、信長も久秀のことを気に入っていたのではないでしょうか?

 

松永弾正久秀。

おそらく好きな武将ランキングなどで今後この人の名前が上位に上がることはないと思いますが、それでも久秀の残した多くの偉業は誰にも評価されなかったとしても今なお、そして本人でさえ知らずのうちに全ての人をを魅了する人物となってます。

 

松永久秀は本当に極悪人だったのか?

興福寺の僧が書いた「多聞院日記」などには、「松永久秀は悪逆非道で、彼が死んだのもその報いである」などと悪役めいて表現されています。

しかし、本当に久秀は世間で知られているような大悪人だったのでしょうか?

 

まず松永久秀が行ったとされる悪行の数々を見ていきましょう。

 

  • 三好一族を次々と暗殺。主家を乗っ取ろうとした。
  • 東大寺の大仏殿を焼いた。
  • 将軍足利義輝を殺害した。
  • 信長に二度までも謀反を起こした。

 

まず主家を乗っ取ろうとした件ですが、三好家の有力者が次々に亡くなったのは、単に偶然が重なったということで説明がつきます。

 

  • 十河一存はすでに病を患っていて死期が近かったこと。
  • 三好実休は合戦での戦死。
  • 長慶の嫡男義興もまた病によって死去し、安宅冬康は長慶による暗殺。
  • そして長慶自身もまた病死でした。

 

この出来事の全てに久秀が関わっているというのはちょっと考えにくいです。

それどころか、久秀には不安定な三好政権を立て直すために、三好義継と共に盛り立てていこうとする気概すら感じるのです。

 

敵対する三好三人衆との合戦の際に東大寺大仏殿が焼け落ちることになりますが、そもそもそんな場所に陣を張った三人衆側が悪いわけで、しかも逃げる際に自陣に火をかけた三人衆側の落ち度だといわれています。

 

また足利義輝暗殺の折にも、実行犯は息子の久通と三好三人衆であり、久秀自身はその場にいませんでしたし、事件には一切関知していませんでした。

 

信長への謀反の際には、主筋だった三好義継と同調しており、あわよくは三好家再興を目指していたのでは?という説もあります。

謀反といっても当時は珍しいことではなく、織田陣営でも荒木村重や明智光秀の例がありますから、取り立てて久秀のみが大悪人かと言えばそうとは言い切れません。

 

織田信長との関係は?

久秀が信長に臣従した当初は、非常に良好な人間関係ではなかったでしょうか。

久秀の行政・政治手腕を認め、上洛して間もない織田家にとって教養も人脈もある久秀の存在は大きかったはずです。

 

 

ところが織田家が勢力を伸ばし、その地位が揺るぎないものとなると、久秀の立場は微妙なものになっていきました。

久秀が保護し、のちに将軍となった足利義昭をあっさりと追放し、主筋の三好義継を攻めて自害させたことにより、信長への信頼関係は損なわれていきます。

 

さらに久秀のプライドを傷つけることが起こりました。大和国(今の奈良県)は、久秀が筒井順慶と争い苦労して手に入れた領国でしたが、信長はあっさりと領有権を順慶に手渡し、久秀自慢の居城だった多聞山城を破却して安土城へと移築したのです。

 

久秀は最後まで我慢を重ねてきたというべきでしょうか。

 

実はかなりの健康オタクだった久秀

最後は67歳で自害するまで長命だった久秀。

実はこんな逸話があります。

 

久秀が松虫を飼っていた時のこと。

普通、松虫というのは半年も生きれば長いとされていますが、久秀はなんと3年間も生き永らえさせたそうです。

 

久秀曰く、「松虫ですらきちんと飼ってやればこれだけ長生きするもの。ましてや人間は日々きちんと養生さえすれば、長生きできるものだ」という逸話が残されています。

 

またこんな話も。

中風の病を予防するために、いつも頭のてっぺんに灸をすえていた久秀。

 

最後の戦いでいよいよ自害するという段になってまで灸をすえていました。

それをいぶかしく思った家臣が、「この期に及んでまで灸でもありますまい」と言うと、久秀は真顔で「いよいよ自害する直前になって中風にでもなってみよ。あの弾正(久秀のこと)は腹すら切れなかったそうだと笑い者になるではないか。快く自害するための心得よ。」と言ったそうです。

 

松永久秀が登場するドラマ

大河ドラマ『軍師官兵衛』

NHK大河ドラマの軍師官兵衛で、久秀は第12回に登場。

ミッキー・カーチスさんが演じられました。

城に火を点け、平蜘蛛を片手に笑いながら爆死するシーンはなかなかインパクトがあったため覚えてる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

チョイ役ではありましたが、松永久秀という人物を印象づけるという意味では非常にこれ以上ない成果のドラマでした。

 

大河ドラマ『麒麟が来る』

明智光秀を主人公にした「麒麟が来る」では、吉田鋼太郎が松永久秀を演じられています。

 

吉田さんは真田丸で織田信長を演じた俳優さん。

短いシーンではありましたが、存在感のある信長だったので、かなり印象に残っています。

 

今度は吉田さんが梟雄と呼ばれた久秀をどのように演じられるのか見ものです。

 



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