長宗我部元親は長宗我部国親の長男として土佐の岡豊城で生まれます。
幼少期は色白で長身であり、おとなしい性格であったため、うつけ・軟弱者という揶揄を込めて「姫若子」と呼ばれていました。
しかし、この姫若子が後に織田信長と結び四国を統一することになります。
姫若子から鬼若子へ
長宗我部元親は家老から槍の突き方を伝授されると、早速初陣で教えられた通りに槍を使い敵兵を討ち取ったという逸話があります。
この出来事があって「姫若子」と揶揄されていた元親は「鬼若子」と呼ばれ一目置かれるようになります。
元親は当主であった国親の死後、長宗我部家の跡を継ぎ土佐を統一。
土佐を統一した後は織田信長と同盟を結び、四国統一事業を本格的に開始します。
そんな元親の当面の敵は機内の最大勢力であった三好氏。
三好氏が信長に敗れ以前の勢力を保てなくなったことを好機と見た元親は阿波侵攻を開始します。
しかし畿内での勢力が衰退していたとは言え、本拠地阿波ではまだまだ三好氏の勢力は強大。
これには元親も苦戦を強いられ、度々敗北していまいますが、1577年に三好長治を討ち取った事で阿波侵攻が急速に発展していきます。
1578年白地城を陥落させ、翌年には十河存保勢が篭る重清城を陥落させ大勝を得ます。
伊予討伐戦では久武親信などの家臣が討ち死にしてしまいますが、金子元宅などの武将や豪族を味方につけ、東予地方を傘下に収めました。
しかし中予地方は河野氏が毛利家からの援助を受け粘り強い抵抗を続けたことで伊予を傘下に収めるには時間がかかってしまいます。
明智光秀と本能寺の変
織田信長から四国の事は『切り取り次第』という、『自分が攻略した領地は自分の物にしていいよ』という許可を得ていた元親。
しかし、織田信長は突然その約束を反故にして、『土佐と阿波半国しか支配を許さない』と伝えます。
この信長の身勝手な言い分にはさすがに元親も激怒。
信長の申し出を拒否して織田家と長宗我部家は険悪なムードになります。
この織田家と長宗我部家の対立に苦労したのが明智光秀。
明智光秀の重臣・斎藤利三が長宗我部元親と姻戚関係にあったこともあり、光秀は長宗我部家とのパイプ役を務めていました。
そんな中での信長の約束違反。
近年、この長宗我部家との調整に苦しんだ事が、明智光秀が本能寺の変を起こした理由の1つではないかとされています。
織田信長は軍は三好康長・十河存保を後援し、元親勢に対して攻撃を開始。
かろうじて優勢を保っていた元親ですが、1582年に信長の息子神戸信孝を総大将にた四国討伐軍が編成されると長宗我部家は絶体絶命のピンチに陥ります。
しかし、結果的に本能寺の変が起こり四国征伐は直前で中止。
元親は最大の危機を明智光秀のおかげで脱する事ができました。
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四国統一へ動き出す
信長が本能寺の変で倒れたことで元親最大の危機は去り、再び四国統一への道に邁進します。
阿波最後の抵抗勢力である十河存保を中富川の戦いで完膚なきまでの叩きのめし、存保が立てこもる勝瑞城も陥落させる事で阿波平定は完了。
残った讃岐攻略に動き出します。
その後、十河存保の救援要請で軍を来援させていた秀吉軍を破り、十河城を陥落させ讃岐も平定させます。
伊予方面は、毛利の援軍と河野氏の頑強な抵抗により一進一退の攻防が繰り広げられていましたが、元親は金子元宅との連携を密にすることで抵抗勢力への攻撃を続け、河野氏を降伏させます。
約10年間に戦の末、元親は四国統一を果たします。
長宗我部元親VS豊臣秀吉
山崎の戦いで明智光秀、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐して政治の実権を握った豊臣秀吉は、長宗我部元親に伊予・讃岐の返還を求めます。
これに対して元親は伊予のみの返還なら応じると秀吉に返答しますが、この態度に納得のいかない秀吉は激怒し、四国討伐の軍を起こします。
弟である豊臣秀長を総大将にした軍勢は総勢10万。
元親は讃岐・伊予・阿波の海岸線の防備を固め白地城を遠征軍迎撃の本陣とします。
しかし、讃岐・伊予・阿波の三国同時攻撃を受けた元親軍は、小早川隆景や黒田官兵衛といった名将揃いの秀吉軍の攻撃に耐え切れず、ついに降伏を決意します。
この結果、元親が数多の戦の果てに手に入れた四国は土佐一国のみを残して全て没収されてしまいます。
元親が四国統一を果たした時には既に秀吉の勢力が強大になりすぎていたこと、これが元親にとっての最大の不運でしたね。
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長宗我部元親の逸話
長宗我部元親にはこんな逸話が残されています。
土佐を統一後、元親は雲辺寺の住職俊崇坊の元を訪れ四国の覇者への夢を語ります。
住職は「土佐一国で四国統一は薬缶のフタで水瓶のフタをする様なものだ」と元親に諭します。
しかし元親は「私という名工が作った蓋ならいずれ四国全土を覆う蓋となろう」と住職に自信満々で答えたとされています。
またある時、家臣から「殿はなぜ四国統一を目指すのですか」と問われると、「家臣に十分な褒美やお主らの家族の安全を保証するには土佐一国だけでは狭すぎるがゆえに四国統一を目指すのである」と答えています。
「姫若子」と侮蔑されていた元親が成長し、自信に満ち溢れた大名となったと事を表すエピソードですね。