西郷隆盛が泣いた赤山靭負(ゆきえ)の切腹の真実と吉兵衛の介錯!
幕末から明治の薩摩を語る上で外せない、赤山靭負(あかやまゆきえ)・桂久武兄弟。
特に兄の赤山靭負は西郷隆盛の父・吉兵衛とも関わりがあった有能な人物でした。
ただ、赤山靭負は明治維新を迎える前に薩摩藩のお家騒動で命を落としてしまうことになります。
ではなぜ靭負は悲劇の死を遂げてしまったのでしょうか?
今回は薩摩藩の優秀な家老・赤山靭負について詳しくみていきましょう。
靭負はなぜ弟・久武と名字が違う?
まず、今回の主人公・赤山靭負の読み方について。
赤山は普通に読めるとしても「靭負って何て読めば良いの?」と思いますよね?
現代のキラキラネームばりに読みにくい名前ですが、この漢字で「靭負(ゆきえ)」と読みます。
赤山靭負は島津一門の島津久風の次男。
名字が島津ではなく赤山なのは、兄である島津久徴(ひさなが)が父の跡を継ぎ、靭負が赤山家の養子となったからです。
靭負が生まれた日置島津家は、代々薩摩藩の家老(藩の家臣の中で最も高い地位で、藩主を助けて藩の政治を行っていた者)を出してきた家柄。
久徴も島津斉彬と忠義(斉彬の次の藩主で、久光の息子)の家老を務め、後に弟・久武も忠義の家老を務めます。
日置島津家ってどんな家?
日置は現在の鹿児島県日置市のことで、東シナ海に面した地域です。
この日置島津家の初代は島津歳久という戦国時代の武将。
戦国時代の歴史に詳しい人ならピンとくると思いますが、あの有名な「島津四兄弟」の三男にあたります。
島津四兄弟は戦国時代を舞台にしたゲームの登場人物になっているほど有名な兄弟。
長男の義久は薩摩国・大隅国・日向国(現在の宮崎県)の守護(武士をまとめる役割)になると、弟たちを戦場に派遣し、ほぼ九州全域を統一しました。
そして次男の義弘は「鬼島津」と呼ばれた猛将。
徳川家康と石田三成が戦ったことで有名な関ヶ原の戦いでの「敵中突破」でも知られています。
義弘は三成率いる西軍に参加していたのですがわずか半日で西軍は敗北。
負けを知った義弘は敵に背中を見せて逃げるのではなく、堂々と敵陣の中を突破して退却します。
この時の義弘の行動は島津家の勇猛さを天下に知らしめることになり、これを警戒した徳川家康は、関ヶ原の戦いで敗者となった島津家の領地を減らすことができませんでした。
この義弘の「敵中突破」は、島津軍の勇猛さを表すエピソードとして歴史に残っています。
そんな兄弟の三男である歳久は、祁答院(けどういん。現在の鹿児島県薩摩川内市東部)の領主を務めていました。
兄の義久がほぼ九州全域を統一した後、全国統一を目指していた豊臣秀吉が九州に進行すると、歳久は最後まで抵抗しますが、結局は秀吉の前にひざまづくことになります。
そしてこの後、明(現在の中国)を征服するために朝鮮に出兵した時、歳久によって予想していなかった事態が発生します。
朝鮮に出兵する途中に、島津家の家臣・梅北国兼が突然肥後国(現在の熊本県)にある城を奪い、反乱を起こしたのです。
この反乱に歳久の家臣が多く参加していたため、ブチ切れた秀吉が歳久に切腹を命じ、歳久は命を落とします。
島津四兄弟の中で最も秀吉に臣従することを拒み、無念の最期を遂げた歳久。
靭負はこの家系に生まれた訳です。
靭負がお由羅騒動に関わった理由とは?
靭負も名門の出身らしく、若い頃から鑓奉行(やりぶぎょう。槍奉行とも書く。藩で槍を持つ一隊を率いる人)として活躍していました。
そんな靭負は西洋の学問に興味を持ち、蘭学者から教えを受けていた斉彬を支持していたため、斉彬を次の藩主にしたい一派と、母親違いの弟である久光を藩主にしたい一派が対立した「お由羅騒動」に関わることになります。
靭負、仲間と共にお由羅一派の暗殺を計画する
騒動というものは一度起きるとなかなか終わらないものです。
正しい情報だけが広まればまだ判断のしようがありますが、誤った情報が流れると訳が分からなくなります。
お由羅騒動もそのせいでおかしな事態に発展します。
きっかけは、斉彬の2人の子どもが立て続けに亡くなり、斉彬自身も病を抱えたことでした。
このことから、斉彬派の間で「斉彬様がご病気になり、2人のお子さまが相次いでお亡くなりになったのは、お由羅の方が呪いをかけたせいだ」といううわさが広がります。
うわさの中には「お由羅の方が京都で呪いの人形を買ったらしい」というものもあったんだとか。
これを事実と判断してキレた者たちの中に、靭負がいました。
「斉彬様やお子さまに呪いをかけたお由羅の方め。許せん!こうなったらお由羅一派を一掃してくれる!」と熱くなって、キレた者たちでお由羅一派の暗殺計画を立てます。
ところが計画を立てている途中で、このことが当時の藩主にして斉彬と久光の父・斉興にばれてしまいます。
お由羅と久光が大好きで仕方なかった斉興はこの計画に激怒。
靭負を含む、計画に参加した者たち15人に切腹を命じました。
西郷隆盛が泣いた…靭負の切腹
斉興の命令で、靭負は切腹。
この時介錯(切腹を手伝うこと)をしたのが、西郷隆盛の父・吉兵衛だったという説があります。
なぜかというと、この頃、吉兵衛が靭負の御用人(藩の家臣の家でお金の出し入れや雑用などを取り仕切る役割)を務めていたからです。
靭負が切腹した後、吉兵衛はその時靭負が身に着けていた血染めの衣を、自らの家に持ち帰って隆盛に見せています。
隆盛はこれを見て泣き、斉彬を次の藩主にすると誓ったのです。
皮肉にも、祖先の歳久と同じく切腹という道をたどった靭負。
しかしそれは、自らが信じた道を突き進んだがゆえのことでした。
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