美濃三人衆のリーダーがワシ!稲葉一鉄(良通)の戦に明け暮れた人生とは?
稲葉一鉄は斎藤道三や織田信長に仕えた武将。
道三の家臣時代は安藤守就(竹中半兵衛の義理の父)、氏家卜全と共に美濃三人衆と呼ばれ、この中でリーダー的な役割を果たしていました。
戦場での槍働きができるだけでなく茶道や医学にも詳しい教養人で、秀吉との関係も良好だったため、「人間50年」とされた戦国時代にあって74歳という長寿を全うしています。
稲葉一鉄(良通)の「頑固一徹」な生涯を簡単に解説
稲葉一鉄(稲葉良通) |
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【出身国】美濃国(岐阜県大垣市あたり)本郷城 |
【生没年】1515~1589年 享年74歳 |
【仕えた人】斎藤道三→織田信長→豊臣秀吉 |
【稲葉良通ってこんな人】
- 父や兄弟が全員討ち死に!幼くして家督を継ぐ
- 「あの人絶対に天下を取る!」親族を見限って信長に味方する
- 自他ともに認める医療オタクだった!
- 80回の戦に参加して負けなしの戦上手
- 「頑固一徹」の語源にもなった人物
後に大きく名を成すことになる稲葉一鉄は美濃の国人領主の子として生まれました。
上に兄が4人もいたため、そのまま元服しても部屋住みになるだけで領地など分けてもらえません。
そのため、幼くして寺に入れられることになりました。
まあ、僧になれば領地を持たなくても済みますし生活にも困りませんからね。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉で有名な快川紹喜の元で修業に励むことになったのです。
ところが、北近江の浅井氏との戦いで、父だけでなく兄たち全員が討ち死にしてしまうという悲劇に見舞われます。
僧籍に入っていようが幼かろうが関係ありません。
一鉄はすぐに呼び戻され、わずか10歳で家督を継ぐことになったのです。
やがて美濃では守護の土岐氏に成り代わって斎藤道三が力を付け、ついには土岐氏を追い出して国主になります。
「斎藤道三って半端ない人だな・・・。」

当時、良通と名乗っていた一鉄がそう思ったかは定かではありませんが、良通は道三の家臣となって頭角を表していくことになります。
道三は、かつての旧主土岐氏から「深芳野」なる女性を譲ってもらっていました。
実はこの「深芳野」は良通の実の姉だったのですが、やがて義龍という嫡男が誕生します。
そして成人した義龍が父道三と不和になり戦いに及ぶと、良通は義龍に味方します。
なんせ自分の甥ですからね。
新たな主として仰いだ義龍でしたが、わずか33歳で亡くなってしまい、その跡を継いだのが龍興でした。
しかし龍興の出来が相当悪かったのかはわかりませんが、家臣たちを束ねる能力に欠け、さらには織田信長の攻勢に晒されます。
結局のところ良通をはじめとする西美濃三人衆という有力者は「龍興では美濃は治められん!」との結論に達し、織田側に付いてしまいます。
そしてこれが龍興の敗北の決定的な原因になります。
新たに信長配下となった良通は、織田家の覇権が広がるにつれて東へ西へ戦いの毎日を繰り返すことになります。
織田軍のほとんどの合戦に参加し、戦うこと80数度。
一度の負けも経験しなかったそうです。
そして、ちょうどその最中に「一鉄」という名前を名乗るようになります。
1582年、本能寺の変によって信長が倒れると、織田領は不穏な空気に包まれました。
一鉄は、道三の子である斎藤利堯を擁して中立を決め込み、お家再興を目指して兵を挙げた安藤守就を討つなどの戦功を挙げています。
そして山崎の合戦で羽柴秀吉が勝利すると、その後は秀吉の幕下に付くようになりました。
気を見るに敏。
一鉄は私情を挟まず、自分の力を発揮させてくれる優秀な人物を見つけると、すぐに主君を変えるという特徴があるように思います。
秀吉の元でも賤ヶ岳合戦や小牧の役に出陣し、70歳の老齢とは思えないほどのエネルギッシュぶりを発揮していたそうです。
そして1588年、まるで天寿を全うするかのように居城の清水城で亡くなりました。
稲葉家はその後も栄え続け、明治維新に至るまで幕閣で重きをなしています。
80回戦って負けなしというのは、一鉄が強い者を見極める力に長けていたからではないでしょうか?
「頑固一徹」の語源は稲葉一鉄だったのは本当?
「頑固一徹」という言葉は「自分の意思を貫き通すこと」という意味なのですが、一鉄の言動から来ている言葉だと言われています。
1570年、織田徳川連合軍が浅井朝倉と対峙した姉川の合戦での出来事。
数で優勢なはずの織田軍は、浅井軍の猛攻に苦しめられ備えを次々に破られていました。
この時、一鉄も防衛ラインを破られまいと必死に防戦します。
しかし敵の猛攻は激しく、一鉄の軍は浅井軍に突破されそうになります。
その時、陣が破られる寸でのところで横合いから徳川軍が救援に駆け付け、織田軍は救われました。
戦いののち、勇戦した一鉄に対して信長は自分の一字「長」を与えようとしますが、一鉄は頑として撥ねつけたのです。
「今日の合戦は、徳川様のおかげによる勝利。それがしの働きを武勇と言うては恥ずかしい限り。」
そのように言ってどんなに説得されても応じなかったそうです。
それ以来、頑固でかたくなに持論を押し通す者のことを「一徹者」そして「頑固一徹」と呼ぶようになったと言われています。
稲葉一鉄は漢方医学を学んだ当代一流の医術家だった
一鉄は自他ともに認める医術家だったとも言われています。
天王寺の戦いの際には足の親指に大きな腫物ができるものの、自分が処方した薬で治癒させていますし、同年には天然痘に罹った子供に薬を処方して全快させています。
そもそも天然痘ワクチンが開発されるのは19世紀初めまで待たねばなりません。
それより300年前に処方していたとは…驚きですね。
実のところ一鉄は、日本医学中興の祖だった曲直瀬道三から医術のイロハを学び、それを実践していました。
さらに道三自らが記した奥義書を与えられていたのです。
稲葉家は江戸時代に豊後臼杵へ移りましたが、現在でも曲直瀬道三の奥義書は臼杵市が保管しているそうです。
春日局(家光の乳母)を居城にかくまっていた
本能寺の変で信長を討った明智光秀。
その家臣に斎藤利三という武将がいました。
[char no="2″ char="三日月"]斎藤利三については下記の記事で詳しく解説しています。
→斎藤利三はなぜ明智光秀の腹心になった?稲葉一鉄との軋轢を紹介![/char]
利三の後妻は一鉄の娘でしたから、いわば親族のようなものです。
利三の娘、斎藤福はまだ幼児でしたが、逆臣の家族のということでどんな仕打ちが待っているかわかりません。
そこで一鉄は福を居城に引き取ってかくまったわけです。
福が成人するまで養育し、やがて彼女は自分で運命を切り開いていきました。
そう、のちに三代将軍徳川家光の乳母となり、江戸城大奥の実質的権力を握るに至ったのです。
[char no="2″ char="三日月"]一鉄の主君、斎藤道三については下記の記事で詳しく解説しています。
→3分でわかる斎藤道三!織田信長との関係や最期の様子を紹介![/char]
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