織田信忠は信長の後継者としての資質はあった?26年の生涯を簡単に解説!

2019-12-26

織田信長の長男であった信忠。

信忠は武将としても優秀で、誰もが信長の後継者として認める存在でした。

 

しかし本能寺の変の際に二条城から逃げ出すことなく篭城して自害することになります。

 

ただ、

 

「実は二条城から逃げ出せたんじゃないか?」

「何としても逃走して生き延びなければいけなかったんじゃないか?」

 

という意見もあり、信長の後継者としては判断力に欠けるという評価もあるようです。

では、織田信忠とはいったいどういう人物だったのでしょうか?

 

今回は信長の後継者としての務めを果たせなかった織田信忠について詳しくみていきましょう。

 

本能寺に散った織田信忠の人生をわかりやすく解説!

織田信忠
【出身国】尾張国清洲城
【生没年】1557~1582年 享年26歳
【主な経歴】織田家当主

 

【織田信忠を理解するポイント】

  • 織田家の将来を背負って立つはずだった御曹司
  • 武将としては信長ほどではないにしても優秀と言うのが一般的な評価
  • 荒木村重や武田勝頼を滅ぼすなど大将としての資質もあり
  • 武田の姫との淡い恋のエピソードあり
  • 本能寺の変で二条城から逃げ出すことなく自害

 

偉大な父を持った二代目がパッとしなかったり、悲運に見舞われることは世の常。

武田勝頼は滅ぼされ、上杉景勝はパッとせず、徳川信康も自害に追い込まれています。

 

織田家の御曹司、織田信忠もそんな中の一人だと言えるでしょう。

 

大将としての資質を備えていた信忠

信忠は1557年に清洲城で生まれます。

幼名は奇妙丸。

当時の織田家の情勢は非常に厳しく、東からは今川氏が虎視眈々と尾張国を狙っており、北の斎藤氏は斎藤道三が息子に殺されて織田家とは敵対中だったのです。

 

そんな中、奇妙丸の父、織田信長は天下への道を歩みだそうとしていました。

やがて元服した奇妙丸は名を信重、次いで信忠と改め、北近江の浅井攻めを皮切りに各地の戦場に馳せ参じるようになります。

 

1575年の長篠合戦で勝利した織田軍は、返す刀で美濃岩村城を攻囲。

大将に任ぜられた信忠は、この戦いで多くの敵兵を討ち取り、城を開城させて武名を上げます。

 

信長も信忠の武将としての資質を認めていたようで、信忠は20歳で織田家の家督を譲られます。

そして安土城にいた信長とは別に、岐阜城に拠点を置いて織田の後継者としての資質を磨いていくことになります。

 

翌年、石山本願寺の抵抗に手を焼いた信長は、本願寺の中核戦力である雑賀衆を討滅するべく、信忠を総大将として7万の兵力で紀州雑賀庄へ大攻勢に打って出ます。

 

当初こそ優勢に戦いを進めていた織田軍ですが、やがて雑賀衆の地の利を生かしたゲリラ戦術と鉄砲の威力に手を焼き、戦闘は膠着状態になっていきました。

 

「これはまずい!こんな田舎に大兵力を置いていても泥沼になるだけだわ。」

 

織田の大軍といっても各地から寄せ集めた軍勢。

いつまでも紀州に関わっていては他の戦線が疎かになります。

 

そう考えた信忠は、比較的寛容な形で雑賀衆の降伏を受け入れ紀州を後にします。

そして返す刀で、今度は謀反を起こした松永久秀を討伐するため大和国へ向かいます。

 

まさに東奔西走。

御曹司といえども絶えず戦場往来しなければならない時代だったのです。

 

この頃、父の信長は実際に戦場に立つことはなくなり、軍事のことは全て信忠に任せていた節があります。

いずれにしても軍事権を掌握した信忠は休む暇もありません。

 

荒木村重攻め&武田攻めを成し遂げる

翌年には西の毛利氏と対峙するべく播磨へ出兵。

尼子残党軍の籠る上月城こそ救援できませんでしたが、毛利方へ寝返った播磨諸将の城を次々に落としています。

 

ちなみにこの頃の播磨の情勢は最悪でした。

当初はほとんどの諸将が織田へ靡いていたものの、誘降工作の失敗もあって、ことごとく毛利へ寝返ってしまう始末でした。

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この時、織田に味方した播磨の国人衆は黒田官兵衛と、その従兄の明石則実のみという有様でした。

何とか播磨の平定にこぎつけ、後は別所氏の籠る三木城のみとなるも、今度は織田の部将だった荒木村重が謀反を起こします。

 

毛利陣営に与した2つの城郭を連携させてはならないと、織田軍は軍を2つに分けてそれぞれ包囲させました。

三木城には羽柴秀吉、有岡城には織田信長・信忠父子という感じです。

 

荒木村重の居城は有岡城といい、【惣構え】という町ぐるみを囲った巨大城郭でした。

力攻めでは損害も大きくなるばかりと包囲網を築いて長期戦の構えに出たのです。

 

そうこうしているうちに戦いに飽いたのか、信長は安土へ帰ってしまい、信忠もただ在陣するだけの毎日に退屈していたようです。

 

対する有岡城の荒木村重は何とか戦況を打開しようと翌年の正月を狙って攻勢に出たのです。

奇しくも目標は信忠が居る加茂砦でした。

 

たしかに油断はあったのでしょうが織田方は散々に負け、信忠も命からがら逃げだしました。

そして、そこから戦況はまたしても膠着状態になったのです。

 

やがてその年の9月、夜陰に乗じて村重は有岡城を脱出。

すると主を失った城は士気を阻喪してしまい、あっけなく落城してしまいました。

 

その後、石山本願寺が和睦に応じ、三木城も降伏し、織田家を取り囲む勢力が軒並み衰退する中、最大のライバルである武田氏を討伐する時がやって来たのです。

 

1582年に行われた「甲州征伐」といわれる戦役でも、もちろん信忠が大将です。

かたや武田氏は斜陽の一途を辿っており、重臣の穴山梅雪や木曽義昌が離反するなど昔日の勢いはありませんでした。

 

遠江国から伊那路を抜けて信濃へ進軍した織田軍は、まさに無人の野を行くが如し。

まともに抵抗したのは武田信玄の五男仁科盛信が籠る高遠城くらいなもので、他の城は戦わずに城を明け渡すか、城主はじめ皆逃亡するかのどちらかでした。

 

信忠としては内心不満だったことでしょう。

華々しく戦って武田氏に引導を渡したかったものを、敵はみんな織田を恐れて逃げ惑うだけなのですから。

 

結局、武田氏当主勝頼は天目山へ逃亡した挙句に自害。

戦いらしい戦いもないまま信忠は凱旋するしかありませんでした。

 

本能寺の変での最期

そして、ついに信忠も運命の時を迎えます。

備中高松城を水攻めで包囲し、毛利軍主力が出張ってきたことを知った秀吉は、毛利攻めの総仕上げとして信長の出馬を求めます。

 

もちろん信長だけ戦場へ向かうわけにはいきません。

織田の軍事権を掌握する大将はあくまで信忠でしたから、彼も当然出陣する必要があったのです。

 

そして、ここで本能寺の変が起こります。

京都に宿泊していた信忠親子を家臣の明智光秀が急襲したのです。

 

この時、信忠は妙覚寺に、信長は本能寺に宿泊していました。

よく、「信長と信忠はほとんど同じ場所になぜ宿所を設置したのか?もし離れていれば二人とも討たれずに済んだのに。」という方がいますが、おそらくそれは間違いです。

 

先ほども述べた通り、織田の家督を継いで大将となっているのはあくまで信忠。

実際に親衛隊ともいうべき軍勢を率いていますし、信忠勢が宿所と定めた妙覚寺も、信長の頃からの定宿となっています。

 

そういった経緯から、二人が比較的近くに宿所を定めたのは必然だったと言えるでしょう。

まあ、そもそも光秀から襲撃されるとは思ってもいないはずですからね。

 

1582年6月2日、「本能寺で信長襲われる」の報を聞いた信忠は、おそらく明智光秀の用意周到さを知っていたのでしょう。

まもなくこちらにも大軍勢を差し向けてくることを。

 

二条新御所へ移った信忠勢は、大軍を相手に奮戦します。

戦いで傷だらけになった家臣の奮戦ぶりを見て、「さも勇気のあることよ。現生で恩賞を授けることはできぬが、来世にて授けよう!」と言ったのは有名な話です。

 

やがて信忠は衆寡敵せず自刃。

父と同様、首が発見されることはありませんでした。

 

その後、豊臣政権となって織田家は衰退していきますが、信忠の嫡男秀信は織田家ゆかりの岐阜城に居を定め、岐阜中納言と呼ばれて政権へと組み込まれていきます。

 

しかし関ヶ原の戦いで西軍に与したために改易。

祖父信長の悪魔の所業に恨みを抱いていた高野山へも登ることができず、麓で寂しく生涯を終えたそうです。

 

武田の姫との淡いロマンス

織田と武田がまだ同盟を結んでいた頃、武田信玄の五女を信忠の許嫁としたことがありました。

姫の名は松姫といい、まだ7歳でした。

 

時折、手紙をやり取りしては互いに淡い恋心を抱いていたそうです。

やがて同盟が破れて婚約も破談になりますが、それでも松姫はひそかに信忠への想いを募らせていました。

 

織田へ輿入れするはずだった松姫の境遇は非常に風当たりが強いもので、見かねた兄の仁科盛信が松姫を自分のところに保護するほどでした。

 

やがて織田による甲州征伐を迎え、武田氏は滅亡の憂き目に遭いました。

しかしその後、松姫にとってうれしい知らせが。

 

あの信忠から「ぜひとも迎えに行く」という手紙を受け取ったのです。

しかし待てど暮らせど信忠はやって来ません。

 

それもそのはず、本能寺の変で若い命を散らしてしまっていたからです。

その後、松姫は数ある縁談を断り続け、信忠への愛を生涯貫き通したとのことです。

 

もう一つあった信忠のロマンス

信忠は生涯正室を持ちませんでした。

(やはり松姫がいたから?)しかし側室は何人か確認されています。

 

その一人は寿々といって、摂津の国人領主だった塩川長満の娘だというのが有力な説です。

しかし当時は日の出の勢いの織田家の御曹司と、摂津の山奥を領する塩川氏とではまったく釣り合いが取れません。

 

実は荒木村重が謀反を起こして有岡城へ立て籠った際、この塩川氏は村重の誘いに応じず織田に忠誠を尽くしたそうです。

そして信忠は頻繁に塩川氏の館に逗留していたそうで、この時に何らかの接点があって、信忠が見初めたというエピソードがあるのです。

 

ちなみにこの寿々と信忠との間にもうけた子供が織田秀信です。

 

[char no="2″ char="三日月"]信忠の父・信長については下記の記事で解説してます。

織田信長ってこんな人!ルイス・フロイスが見た信長の性格と人柄![/char]