信頼される上司の見本!信長も認めた蒲生氏郷の生涯を分かりやすく解説!
この間ある啓発本を読んでいたとき、「部下に頼られるため必要となるのは部下へのねぎらい、そして働きに見合った給料、そして常に上司が模範を見せること」というようなことが載っていたのを見て笑ってしまいました。
実はこれと全く同じことを戦国時代にも言っていた人がいて、人間相手の極意というのは年月が経っても変わらないものなのかなと思ったからです。
その人物こそが今回の主人公・蒲生氏郷(がもううじさと)。
織田信長が早くから才能を見抜き、自分の娘と結婚させたほどの天才武将です。
氏郷がの述べた格言の一つに「知行と情けは車の車輪、鳥の羽の如くにそうらわねば叶わざる事に候」というものがあります。
知行と情け、つまり給料と日頃のねぎらいなどはどちらも部下には必要だという意味です。
また、蒲生氏郷は新しく召抱えた家臣がいれば必ず、「うちの先鋒隊には銀色のなまずの尾の形をした兜をかぶった武将がいる。そいつの勇ましい活躍を見たら決して負けてはダメだ」と述べていました。
実はこの銀色のなまず尾の兜をかぶった武将というのは蒲生氏郷本人のこと。
つまり、「俺が常に先陣を切るからお前らも負けずについて来い」というこれもまた部下に模範を見せるという点で先を行っていました。
つまり、最初にお伝えした啓発書の内容と全く同じ方法で家中をまとめていた訳ですね。
氏郷が先頭になって敵陣に斬り込んでいくことは義父である信長からも注意されてたようです。
しかし氏郷は「口先でかかれかかれと部下に言うだけで部下が動くはずがないっしょ?」と反論。
まさに「部下に自分の背中を見せる」という方法で軍団をまとめていました。
実際に部下の信頼が非常に厚かったと言われる蒲生氏郷。
今回は蒲生氏郷がどんな人物だったのかを詳しく見ていきましょう。
蒲生氏郷の基本データ
蒲生氏郷 |
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【生没年】1556年~1595年 享年39歳 |
【同級生】松平忠直・毛利秀就 |
【主君】織田信長→豊臣秀吉 |
【家紋】向い鶴 |
【蒲生氏郷を知る6つのポイント】
- 織田信長にただ者ではないと思わせる魅力の持ち主
- 妻は信長の次女・冬姫
- 戦になったら先陣をきって突進していく猛将タイプ
- ナマズの尾の形をした兜をかぶって敵を倒しまくる豪傑
- 千利休の弟子で茶人としても有名
- 会津91万石の大大名
蒲生賢秀「人質届けに来ました」信長「うちさぁ娘いるんだけどさぁ」から本能寺の変まで
氏郷は弘治2年(1556年)当時六角承禎の重心だった蒲生賢秀の三男として生まれ、幼名を鶴千代と名付けられます。(ここでは氏郷で統一します)
主君の六角家が滅ぶと、父の蒲生賢秀は当時滅ぼした家の家臣たちを自分の部下として仕官させる方針を取っていた信長に降伏し、息子の氏郷を人質として差し出します。
この時、初めて氏郷と対面した信長は「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(コイツの目つきマジでやばい。只者じゃないわ、ところでうち娘いるんだけどさ…)」と述べます。
その後14歳になった永禄12年(1569年)に大河内城の戦いで初陣を飾ったあと信長の次女と結婚。
さらに翌年元亀元年(1570年)4月には父賢秀と共に柴田勝家の与力となり、
- 姉川の戦い
- 第一次伊勢長島攻め
- 朝倉攻め
- 小谷城攻め
- 二次伊勢長島攻め
- 長篠の戦い
- 有岡城の戦い
- 第二次天正伊賀の乱
など大きな戦いを転戦。
自らに信頼を寄せる家臣たちとともにどの戦いにおいても武功を挙げます。
氏郷は大河ドラマなどに登場することがないので、功績はあまり知られていません。
しかし、織田家の中でも勇猛で政治能力に長けていた武将であることはまちがいありません。
先陣をきって戦うのが大好きな現場の指揮官
本能寺の変の後は秀吉に近づき秀吉の統一事業を助けます。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いでは加賀野井城攻めで武功を挙げ、同年8月には菅瀬合戦で戸木城に篭る木造具政という武将と戦います。
この具政というのは北畠具教の弟ながら信長を裏切って第二次伊勢長島攻めに参加した人物。
つまり蒲生氏郷とともに出陣したことがあり、氏郷の戦い方をよく知っていたのです。
もちろん氏郷は常に先陣を切って飛び出してくるということも知っていたので、「先頭を走る銀鯰尾兜の武将が総大将だ。そいつを狙撃しろ」という命令を出します。
待ち構える木造具政に対しいつものように先陣を切って走ってくる氏郷。
氏郷に対して鉄砲の銃弾が集中します。
この時氏郷は兜に3発の銃弾を受け、鎧にも数多くの銃弾を受けています。
まさに戦場で戦うことを生きがいとした戦国武将。
徳川四天王の1人、本多忠勝は生涯の合戦で1つのかすり傷も負わなかったことで有名ですが、ライバルの井伊直政は常に先陣をきって戦っていたので生傷が絶えなかったと言われています。
氏郷は武将のタイプでいうと、陣の後方で指示を出す忠勝よりも、先陣をきって戦う直政タイプの戦国武将だったようですね。そ
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趣味はお茶に歌など意外にガーリー、実はキリシタン大名という一面も。
氏郷は戦場において常に先陣、または殿(しんがり=撤退戦の最後尾)をこなす現場で頼れる指揮官タイプの武将であるということは分かってもらえたと思います。
ただ、氏郷は武功があるだけの猛将ではなく、なんでもできる万能タイプのエリート武将でした。
その証拠に、アウトドアな活躍ばかりではなく、実は高名な文化人でとしても知られています。
特に茶の湯については自他ともに認める数寄者で、千利休の高弟として知られる利休七哲の筆頭に名を連ねており、師である利休からは「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」とまで言われるほどでした。
同じ利休七哲の細川忠興、高山右近とは特に仲が良かったようで、小田原の陣では右近が用意した牛肉を3人で一緒に食べたという話があります。
また、キリシタン大名でもあった高山右近に「君もキリシタンに興味はないかい?」と誘われます。
最初は「えぇー嫌だよw」と言っていた氏郷でしたが、右近に「まぁそれならせめて説教だけでも」と言われ、それくらいならと説教を聞くと非常にその教えに感銘を受けやがて洗礼を受け、「レオン」という洗礼名を与えられます。
変なツボとか買わされないか心配なタイプです。
ほかにも宗養・里村紹巴からは連歌も学んでおり歌も読んでいるなど……なんというかこの人すっごく人生楽しんでるなぁって感じですね。
伊達政宗の抑えとして会津90万石の大名に!
小田原攻めにも参陣し、長年秀吉に忠実に仕えた氏郷は後の奥州仕置において奥州を抑える要として会津42万石の大名となります。
その後検地、加増により91万石取りの大大名となった蒲生氏郷。
期待されていたのは仙台の伊達政宗を牽制する役割でした。
まず氏郷は居城であった黒川城の大改修ならびに城下町の整備を行い、名前を鶴ヶ城(現在の会津若松城)と改めます。
それにちなんで城下町の名前も黒川から若松へと改めています。
そのほかにも商業政策に力を入れた氏郷は松坂の商人の招聘や手工業の症例などを推し進め後の会津藩の発展の礎を築きます。
また若松市内に教会などを作り領民にもキリスト教への改修を勧めたとも言われます。
その後も葛西大崎一揆など、領内で度々一揆を引き起こす伊達政宗を監視します。
文禄元年(1592年)文録の役が起こった際は肥前名古屋城に参陣するものの、その最中に体調を崩し文禄4年(1595年)伏見の蒲生屋敷で病死します。
享年は40という若い死でした。
その後蒲生家は嫡子の秀行が継ぐものの、その後家内不穏などを理由に宇都宮12万石に減俸されてしまいます。
蒲生氏郷の評判は?ファンはどんな風に思ってる?
Twitter上にある蒲生氏郷ファンの声や評判をまとめてみました。
こうしてみてみると、マイナーな戦国武将にしては高評価の声が多いような気がします。
『朝日新聞』【三重版】紙上で、原作を担当させていただいた、コミック版『戦国人物伝 蒲生氏郷』(ポプラ社)を取り上げていただきました。
全国の戦国ファンの間でも人気の高い、蒲生氏郷の生涯を描いた1冊です。
お近くの書店や図書館で見かけましたら、手に取ってご覧ください。#蒲生氏郷pic.twitter.com/Z1heN8mh11— 水谷 俊樹 (@toshi_mizu249) December 12, 2019
噂や評判だけでその人物を決めつけてはいけない。-蒲生氏郷
— 戦国武将の名言集 (@MeigenBusho) December 12, 2019
伊達政宗が活躍できたのは、東北で産まれたから。中央で産まれてたら、切り取りできる領地が無い。早めに潰されてるか、誰かの家来になるか。『京の近くに産まれて無かったら・・・』大大名に成れたのが、蒲生氏郷。真田信之も東北なら、伊達政宗より活躍したかも。『産まれるのが遅すぎた。』3人。
— lamai (@lamai58753916) December 14, 2019
『知行と情とは車の両輪、鳥の翅のごとし。』蒲生氏郷
— 戦国武将に学ぶ、忘れていた金言 (@Quotesofbattle) December 12, 2019
手力神社(伊賀市東湯舟)正応年間(1288年~1293年)に信濃国戸隠神社より勧請されたとの伝承がある。毎年、十月十七日に大祭が行われ、願火煙火(花火)は伊賀忍者で有名な藤林長門守や戦国大名の蒲生氏郷も奉納したとされる。 pic.twitter.com/NoxSn1oOT3
— 伊賀の歴史bot (@iganorekishibot) December 13, 2019
いまさら知ったが、福島名物赤ベコの成立には、蒲生氏郷の会津入封が関係しているらしい… pic.twitter.com/pWccZpyXRt
— Sひろし (@1970er) December 14, 2019
上に立つ者は、進め進めと言っているだけでは駄目だ。時には先に行ってここへ来いという事も必要だ。#蒲生氏郷
— 武士の言葉 (@bushi_no_kotoba) December 14, 2019
#100名城 No.12 会津若松城
✅戦国時代以前からあった蘆名氏の黒川城を蒲生氏郷が改修し、若松城に改称✅地震によって天守が壊れ、再建されている。小さな天守を建てたので天守台石垣とサイズが合っていない
✅戊辰戦争では新政府軍との戦いで会津藩が籠城し、開城するまで敵を侵入させなかった pic.twitter.com/Or32YaB8W8
— ゆーき????@お城クリエイター (@yuki_oha) December 15, 2019
コツコツ蒲生氏郷公を学ぶためにゲット????
ミネルヴァ書房『蒲生氏郷』と迷ったが、まずはこちらから????
チラ見したら、真田信尹や曾根昌世が氏郷に仕えていて、会津若松城の内外郭は甲州流の縄張りで築いていたとは知らなかった???? pic.twitter.com/wYquUj7ICx— 弾正 (@naoejou) December 17, 2019
蒲生氏郷のまとめ
こうして見ると彼自身はそこまで何か野心があるとか大望があったという印象は薄いかもしれません。
その時の権力者に近づいて部下になった先で全力を尽くして仕事をするといういかにも日本人タイプの武将と言えます。
しかし彼は上司として常に良い環境で部下が働けるよう気配りをしました。
たとえば月に一回定例会議のようなものを開いていました。
その会議の席では「怨まず、怒らず」が約束となっておりたとえ身分の低いものでも参加して自由に発言し、会議が終わったら氏郷自身が風呂を沸かして食事を用意したようです。
このように非常に考え深い人物であるという一方で、部下に気前よく給料をあげすぎて自分の給料がなくなったとかいう話もあります。
ただ名将というだけでなく、仲間を一番に考える誰からも愛されるキャラだったんだなというのが容易に読み取れますよね?
氏郷が40歳という若い年齢でなくなった間際に読んだ辞世の句は、
「かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風」
風がなくても散ってしまう花を自らにたとえ、そんなに短気に命を散らせてくれなくても……、というもっと長く生きたいという言葉です。
常に今という時間を全力で生きた氏郷の最後の願い。
それこそ、まだまだ生きたいということだったのかなというところに氏郷らしを感じてしまうところで総評としたいと思います。
蒲生氏郷が登場する作品
蒲生氏郷が登場するドラマや小説は少ないですが、その中でも一番有名で読みやすいのが『へうげもの』という漫画です。
利休七哲の筆頭として主人公である古田織部を導き、俯瞰した視点から織部を見守る、まるで頼れる兄貴分のような立ち位置で描かれています。
この作品の織部の師匠的な役割はもちろん宗匠である千利休ですがそれに対し氏郷は織部を見守り、成長を促すようなヒントを与える役回りです。
それでも武闘派な一面もしっかりと描かれており、一揆の扇動に関して伊達政宗と話し合った時は政宗とガチの殴り合いをして茶室のドアを突き破るなど、仲直りして政宗と抱き合うなどの破天荒な一面も見せてくれます。
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