ライバルは松永久秀!筒井順慶が語源になったことわざや逸話を紹介!
筒井順慶は織田信長、豊臣秀吉に使えて大和国(今の奈良県)を治めた戦国大名。
明智光秀の与力(信長から派遣された出向社員のようなも)となっていたため、山崎の合戦の際は光秀が最も頼りにした武将でした。
しかし、順慶は光秀に従うことなく秀吉の下に付くことを選びます。
光秀のクーデターの失敗、そして秀吉の天下取りに大きな影響を与えた筒井順慶。
今回は筒井順慶がどんな人物だったのかを詳しく解説していきます。
筒井順慶を簡単に説明するとこんな人!
【出身国】大和国、筒井城 |
【生没年】1549~1584年 享年36歳 |
【役職】大和国の大名 |
【立場】明智光秀の与力 |
- わずか2歳で筒井家の家督を継ぐ
- 松永久秀との大和国争奪戦を繰り広げる
- 俺のバックは最強!織田信長を味方に!
- 2つのことわざの誕生に関わる
筒井順慶の一生は幼い頃から戦いに明け暮れたものでした。
順慶が生まれた筒井家は古くから奈良興福寺の有力な宗徒で、代々の当主がある一定の年齢に達すると僧籍に入ることになっていました。
なので、一般的な戦国大名とは違い、僧兵がそのまま大名化したような不思議な家でした。
順慶は1549年に生まれるのですが、わずか2歳で父が亡くなります。
他の兄弟はみんな女子だったため、叔父が後見人になり、筒井家の当主になります。
わずか2歳で戦国大名に・・・。
もちろん2歳の子供が何かできる訳ではないので、筒井家としては不安いっぱいの状況となっていました。
そこへ筒井家にとって最大最強の敵というべき存在、梟雄として名高い松永久秀が大和国へ侵攻してきたのです。
【松永久秀についてはこちら】
→松永久秀は本当に極悪人だった?織田信長との関係について解説!
有力な国人衆は筒井家を見限って多くの者が松永方へついてしまい、戦いの状況も芳しくありません。
さらに後見役だった叔父の順政が亡くなってしまい、久秀の攻撃の前に筒井城は落城。
順慶はこの時16歳でしたが、家臣と一緒に山奥へ逃げ込むしかありませんでした。
この時期は順慶にとって、まさに忍耐の時期でした。
この時順慶が頼りにしたのが布施城にいた布施行盛。
この山城で6年もの間、籠城し続けたのです。
久秀は大軍をもって攻めるも布施城を落とせません。
それもそのはず、この布施城というのは葛城山の中腹にある大変な山城。
現在でも尾根筋に連なる無数の曲輪群が残っていて、巨大な要塞ぶりが良く分かります。
城を攻め落とせない久秀とは反対に、布施城で力をたくわえた順慶は松永方の城を攻め落とすなど反撃に転じます。
やがて織田信長が上洛を果たすと、久秀は信長に取り入って傘下に加わり、「大和国は切り取り次第で久秀のものにせよ」というお墨付きをもらいます。
布施城に籠り続けて手も足も出ない順慶は、織田軍をも相手にしなくてはならなくなります。
しかし、順慶はどれだけ窮地に落とされても奇跡を信じて戦い続けます。
そして劣勢な状況にありながらも味方を募り、兵を整えて決戦を挑み、辰市合戦で大勝利を挙げます。
これで勢いを盛り返して優位に立った順慶。
そんな順慶の善戦ぶりを聞き及んだのか、信長の態度も次第に軟化していきます。
「若いくせになかなかの強者。久秀に滅ぼさせるのはもったいなきこと。」というわけで、明智光秀を仲介として筒井・松永は和睦することになります。
信長に気に入られるも松永久秀との確執ができる
そんな順慶に対して腹の虫がおさまらないのが久秀。
「大和国を切り取れなかったばかりか順慶と同じ釜の飯を食わねばならないとは!」
怒り心頭の久秀は、信長包囲網の一角だった武田信玄と通じて、なんと信長を裏切ってしまいます。
しかし期待も虚しく信玄は病に倒れてしまい、久秀はあっさりと降伏することに。
これをきっかけとして、織田陣営における順慶と久秀の扱いはひっくり返ってしまうのです。
表面上は順慶、久秀とも波風は立たなかったようですが、明らかに信長から気に入られているのは順慶のほうでした。
順慶も期待に応えて織田軍の合戦にたびたび参加しては活躍しています。
いっぽう久秀は懲りずにまたもや信長を裏切ってしまうという暴挙に出ます
今度は上杉謙信が上洛してくる!という情報を真に受けて信貴山城にて挙兵してしまったのです。
信貴山城攻めの先陣を受け持ったのは筒井順慶。
白を取り囲まれた松永久秀は自害して果て、ようやく大和国は順慶のものになります。
本能寺の変後は明智光秀から離れる
時は流れ、本能寺の変で信長を討った明智光秀は順慶に対して味方になるよう要請します。
順慶は光秀の与力(信長の元からの出向社員)という立場だったので、光秀も順慶は当然自分の味方になってくれるものだと思っていました。
しかし、順慶は快諾するどころか羽柴秀吉に味方することになります。
順慶は光秀の与力でもあったのですが、やはり順慶は気を見るに敏。
どちらが勝利するのかがわかっていたのでしょうね。
順慶の協力を期待していた光秀は大きく計画が狂い、山崎の合戦で羽柴秀吉軍に大敗を喫してしまいます。
それから2年後、順慶は36歳の若さで亡くなります。
その後も筒井家は存続しますが、江戸時代になると幕府から改易されて取り潰されます。
養子の順斎の家系は幕末まで続き、日露和親条約を交渉した筒井政憲が子孫になります。
「洞ヶ峠を決め込む」の語源となった順慶の行動
本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、順慶を味方に付けようと画策。
何度も使者を送って誘いを掛けました。
ラブコールを受けた順慶は居城で重臣会議を開きます。
光秀派の家臣もいれば秀吉派の家臣もいるため、ここで下手にどちらかに味方すれば家臣が分裂することになります。
そこで順慶はとりあえず籠城の準備だけしておいて、どちらにも味方しないことを決め込んだのです。
「洞ヶ峠を決め込む」という言葉の意味は、どちらにも肩入れせず日和見を決め込むということですから、まさに順慶は言葉通りに日和見をしたわけです。
通説では、京都府と大阪府の境にある洞ヶ峠で両軍の戦いを静観したような記述が見られますが、順慶は洞ヶ峠へ行っていません。
むしろ光秀の方が洞ヶ峠へ出向いて順慶の来援を待っていたということが史実です。
しかし順慶はやって来ず、結局光秀は劣勢な兵力のまま戦わざるを得ませんでした。
「元の木阿弥」の語源となった父
順慶の父順昭は28歳の若さで亡くなりましたが、後に残されたのはわずか2歳の順慶。
その行く末がよほど心配だったのでしょう。
自分とよく似た木阿弥(もくあみ)という僧を探し出し、自分の身代わりに影武者としたのです。
殿様の身代わりですから、かなり贅沢な暮らしをしていたそうです。
やがて順慶が成長すると木阿弥はお役御免になって否応なしに奈良へ帰らざるを得ませんでした。
どんなに幸せで良い境遇であっても、一介の僧に逆戻りしたに過ぎなかった。ということから「元の木阿弥」という表現が生まれています。
【本文中に登場した松永久秀については下記の記事で詳しく解説しています。】
→松永久秀は本当に極悪人だった?織田信長との関係について解説!
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