紀尾井坂の変の場所へ行ってみました!大久保利通の墓所も紹介!

2024-12-14

大久保利通が不平士族に暗殺された「紀尾井坂の変」。

この紀尾井坂というのは東京都千代田区にある坂の名前で、赤坂見附や東京ガーデンテラス紀尾井町から歩いてすぐの場所にあります。

今回は大久保利通の最期の場所となった紀尾井坂(紀尾井町清水谷)を実際に訪れた時の様子をレポートしていきたいと思います。

【紀尾井坂の変・場所】紀尾井坂の名前の由来って?

紀尾井坂の様子をレポートする前に、まずは『紀尾井坂』という名前の由来をみておきましょう。

現在の東京都千代田区紀尾井町は、江戸時代に有力な大名の屋敷があった場所です。

その中でも大きかったのが、

  • 州徳川家
  • 張徳川家
  • 伊家(彦根藩)

この三家に挟まれた場所にある坂は、それぞれの頭文字を取って『紀尾井坂』と呼ばれるようになります。

現地の案内板を見ると、現在、清水谷公園やホテルニューオータニがある場所は広大な大名屋敷だったことが分かります。

【紀尾井坂の変・場所】紀尾井坂の変の詳細

この紀尾井町で起こったのが紀尾井坂の変。

事件当日、大久保利通は明治天皇に拝謁するために自宅から赤坂御用地を目指していました。

すると、紀尾井坂に差しかかる前で6人の不平士族が大久保の乗った馬車を襲撃。

大久保は馬車に乗っていたのですが、不平士族たちは馬の足を斬って動きを止め、中から大久保を引きずり出します。

この時、大久保は不平士族を一喝しますが、抵抗という抵抗もできず斬りつけられ、喉に刀を突き立てられて絶命します。

実行犯は石川県の士族である島田一郎(石川県士族)ら6名。

主犯格の島田は大久保と決別した西郷隆盛に同調していた人物で、西南戦争にも加担しようとしていました。

つまり、明治政府を良く思っていなかった訳ですが、その不満が『大久保利通暗殺』という行動につながります。

島田らが大久保を襲撃した理由は下記の5つ。

  • 国会も憲法も開設しないで国民を圧迫した政治をしている。
  • 明治政府の役人がコネで登用されている。
  • 不要な建築や工事で国費を無駄遣いしている。
  • 不平士族の反乱や西南戦争を引き起こした。
  • 外国との不平等条約を改正しないままにしている。

ザックリと表現すると、「日本のためにならない自分勝手な政治をしている」という内容でした。

大久保は30年という歳月をかけて明治という時代の礎をつくる計画を持ち、自分の財産も国の事業に注ぎ込んでいました。

しかし、その思いは不平士族たちにとっては知る由もないことだったようです。

【紀尾井坂の変・場所】大久保利通暗殺現場へ行ってみた

紀尾井坂は現在の東京都千代田区にあります。

赤坂駅から5分くらい歩いた場所で、大久保利通が暗殺当時に通ったであろう道は今でも残っています。

当時の大久保利通の邸宅は今の国会議事堂の近くにありました。

ここから明治天皇に拝謁するために赤坂御用地へ向かった大久保は、赤坂見附の脇を抜けて清水谷を通ります。

そして、この清水谷を通って紀尾井坂に差しかかる辺りで襲撃されたと伝わっています。

大久保利通が襲撃されたとされるのがちょうどこの辺り。

正面の信号を左に曲がると紀尾井坂があります。

そして紀尾井坂を登ったところが、大久保が目指していた赤坂御用地。

写真では分かりづらいですが、中央からちょっと左側に門があるので、この門を入って明治天皇のいる仮御所へ向かう予定でした。

現在、大久保が暗殺された場所は清水谷公園と呼ばれる公園になっています。

上記の写真の辺りが暗殺現場なのですが、当時を想像しながら歩いてみると感慨もひとしおです。

【紀尾井坂の変・場所】清水谷公園の大久保利通哀悼碑

清水谷公園には紀尾井坂の変の現場であることを示す、大久保利通の哀悼碑が建てられています。

これは紀尾井坂の変から10年後の明治21年に建てられた石碑で、実質的な最高指導者だった大久保利通の石碑とあってかなりの大きさ。

明治政府では厳しい人物として知られ、あまり人望が厚かったというイメージのない大久保ですが、これだけの石碑が建てられるということは、きっと周りの人からも慕われていたのだと思います。

清水谷公園という名前からも分かるように、大久保利通の石碑がある場所は谷になっているので、今でも独特の雰囲気があります。

石碑の裏に回り込んでみるとこんな感じ。

この辺りは斜面になっていて木が生い茂っているので、昼間でも薄暗く、ちょっと不思議な感じのする空間になっています。

【紀尾井坂の変・場所】大久保利通の墓所

暗殺後、国葬級の葬儀が行われると、大久保の遺体は青山霊園に葬られます。

青山霊園には有名な人物のお墓が沢山ありますが、大久保のお墓はその中でも別格の大きさ。

明治政府の権力者ということもあって、とにかく墓所が広く、墓石自体もとにかく大きいです。

まず、大久保家の墓所に入ると立派な碑が。

最初はこれがお墓かと思ったのですがそうではなく、左側の鳥居をくぐった先に墓所があります。

写真では分かりにくいですが、墓石はかなりの大きさ。

京都の霊山にある木戸孝允(桂小五郎)の墓を見た時に『立派だな~』と思った記憶がありますが、大久保の墓はそれよりも大きかったです。

そして注目すべきは大久保のお墓の左側。

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なんと、紀尾井坂の変で大久保の乗っていた馬車を引いていた馬と運転手・中村太郎のお墓があります。

不平士族たちは紀尾井坂の変の際、最初に馬の足を斬り、続いて運転手の中村太郎を殺害しました。

中村太郎もそうですが、馬車を引いていた馬が主と同じ敷地に葬られているというのも珍しいのではないかと思います。

ちなみに、大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車は現存していて、岡山県の五流尊瀧院(ごりゅう そんりゅういん)で見ることができます。

暗殺された時に乗っていた馬車が残ってるって凄いですよね・・・。