3分で分る陸奥宗光!条約改正した領事裁判権や坂本龍馬との関係を解説!

2019-12-26

陸奥宗光は幕末から明治時代にかけて活躍した政治家。

若い頃は海援隊士として坂本龍馬とともに幕末を駆け抜け、明治になってからは外務大臣として外交交渉に力を発揮しています。

 

では、陸奥宗光は具体的にどのような功績があったのか?

今回は陸奥宗光について分かりやすく解説します。

 

陸奥宗光の大きな功績

陸奥宗光の大きな功績は、外務大臣時代に締結した2つの条約です。

それが「下関条約」と「日英通商航海条約」。

 

 

この2つは日本にとってとても大きな意味のある条約でした。

 

日本に有利な下関条約の締結

日清戦争の講和会議が行われた際、陸奥宗光は外務大臣として伊藤博文と一緒に下関講和会議に出席します。

この時に日本に有利な条件で下関条約を結ぶことに成功しています。

 

不平等条約の改正

日本は幕末に結んだ諸外国との不平等条約に苦しめられていました。

 

不平等条約と言われる主な理由は、

 

  • 領事裁判権(治外法権)
  • 関税自主権

 

の2つがなかったこと。

 

これは簡単にいうと、外国人が日本で犯罪を犯しても日本の法律で裁けず(領事裁判権)、輸入品にかける税金も日本が決めることが出来ない(関税自主権)というものでした。

 

この不平等な条約を改正するために、過去には岩倉具視や大隈重信が諸外国と交渉してきました。

しかし、条約を改正することができないままでした。

 

そんな流れの中、陸奥宗光が日英通商航海条約を締結し、領事裁判権(治外法権)を撤廃することに成功します。

そして、陸奥宗光の2代後の小村寿太郎が関税自主権を回復して、不平等条約の改正に終止符が打たれます。

 

陸奥宗光のあだ名は「カミソリ大臣」。

交渉をまとめるのが上手なことからついたあだ名ですが、陸奥の功績をみれば「カミソリ」というあだ名が付くのもうなづけます。

 

陸奥宗光の生涯を簡単に解説

陸奥宗光は紀伊藩(和歌山藩)の藩士でした。

父が紀伊藩の政争に敗れ一家は没落すると、陸奥は江戸に出て学問を志します。

 

この時に坂本龍馬や伊藤博文と面識を持ったといいます。

 

1861年、陸奥の父は紀伊藩に許されますが、陸奥自身は紀伊藩の処分に納得がいかず脱藩。

勝海舟がつくった神戸海軍塾の塾頭に坂本龍馬が任命されると、この塾に陸奥宗光も加わります。

 

神戸海軍塾が解散となると、坂本は薩摩藩や商人たちの援助を得て長崎に亀山社中を立ち上げ。

のちに亀山社中は海援隊となりますが、その中に陸奥の姿がありました。

 

坂本が1867年に暗殺されると、陸奥は独自に調査して犯人と思われる人物を襲撃するなどしています。

それほど坂本龍馬に対する思いが強かったようです。

 

明治維新後、岩倉具視の推薦で新政府の役人になりましたが、1877年の西南戦争のときに西郷軍に味方したとの容疑で逮捕され、禁固5年の刑を受けました。

 

陸奥の才能を知る伊藤博文は陸奥の刑期が短くなるように尽力し、出獄後は伊藤の勧めもありヨーロッパに留学します。

陸奥はヨーロッパの制度について猛勉強したようで、そのころのノートが残されています。

 

1892年には第2次伊藤内閣の外務大臣となります。

陸奥にとっての大仕事は、江戸幕府が外国と結んだ不平等条約を改正することでした。

 

イギリスやフランス・ロシア・アメリカなどの大国はそう簡単に条約改正に応じず、明治維新後、たびたび改正を試みたものの、すべて失敗に終わっていたのです。

 

陸奥はもっとも日本との関係が深いイギリスとの交渉に乗り出します。

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当時のイギリスは世界各地でロシアと衝突していました。

 

イギリスは東アジアでの権利を守ってくれる有力な国を必要としていたのです。

このイギリスの動きを陸奥は正確に把握します。

 

その結果、イギリスは不平等条約のうち、領事裁判権の撤廃に応じました。

陸奥のこの成功は日本の地位を高め、他の国との交渉を有利にしました。

他の国もイギリス同様、不平等条約の改正に応じたのです。

 

その後、日清戦争後の下関条約や三国干渉においても陸奥の手腕が発揮されます。

しかし1896年、長年患っていた肺結核が悪化して政界を引退。

 

1897年に死去しました。

 

陸奥宗光の2人の恩人、坂本龍馬と伊藤博文

海援隊でともに活動した坂本龍馬は陸奥宗光を「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と評しました。

武士という身分を捨ててもやっていけると坂本に思わせるほどの能力があったようです。

 

一方、伊藤博文は陸奥が牢獄に入れられた際も釈放のために手を貸したり、自身の内閣で外務大臣に任命するなど陸奥の能力を高く買っていました。

 

しかし、実直な武人を好んだ明治天皇は陸奥のことをあまり好きではなかったようで、大臣就任に際して「本当に大丈夫か?」と疑問を呈したといわれます。

 

カミソリともいわれる陸奥宗光。

その評価は良くも悪くも切れ味のあるものになったようです。

 

陸奥宗光の外交のプロとしての片鱗

陸奥は外務大臣や公使になる前にも外交で実績を上げています。

戊辰戦争のころ、旧幕府がアメリカに注文した最新鋭の戦艦、ストーンウォール号の引き渡しが滞っていました。

 

明治政府にはアメリカに支払うお金がありませんでした。

そこで陸奥は大阪の商人たちと交渉し未払いの代金を支払って戦艦を明治政府のものとしました。

 

この戦艦は宮古沖海戦や箱館港での海戦で活躍し戊辰戦争での新政府の勝利に貢献しました。

こうした実績が同じく交渉を得意とした伊藤博文らの目に留まったものと考えられます。

 

陸奥の奥さんは超美人?鹿鳴館の華と言われた陸奥亮子

陸奥は大阪の芸者出身の蓮子と結婚していましたが、1872年に彼女は病死してしまいます。

すると同じ年、陸奥は東京の元芸妓小鈴と結婚します。

 

この小鈴が、のちに鹿鳴館の華とうたわれた美女・陸奥亮子となります。

亮子は単に美しいだけではなく、個人的な魅力や話術によって第一等の貴婦人といわれました。

 

 

陸奥も彼女にほれ込んでいたようで、牢獄に入れられていた時もヨーロッパ留学中も、こまめに亮子に手紙を書いています。

留学中はの手紙は50通を越えていました。

 

現代に残る外交史ノンフィクション「蹇蹇録(けんけんろく)」

「蹇蹇録(けんけんろく)」は、下関講和条約の締結直後に著された日清戦争の覚書です。

 

  • 朝鮮をめぐる日本と清国の対立
  • 甲午農民戦争と両国の出兵
  • 開戦と条約改正
  • 戦争時の外交
  • 講話交渉
  • 三国干渉

 

など歴史の教科書に書かれているような大事件について当事者である陸奥が書き残した貴重な資料です。

 

公文書の背後に隠された陸奥自身の政略と諸外国の思惑について率直に書き記したものです。

読む人がリアルな政治を実感できる貴重な本です。