1万円札の人!福沢諭吉の学問のすすめの要点を分りやすく解説!
私達が普段使っている1万円札、その肖像はご存知福沢諭吉です。
福沢諭吉は幕末から明治にかけて西洋化を推し進め、日本を近代国家にすることを主張し続けた人物。
彼は生涯で数多くの著作を残しましたが、その中で最も有名なのが『学問のすすめ』です。
『学問のすすめ』では、日本の明治維新以降の教育について何をすべきかということをひたすらに言及し続けていました。
では、福沢諭吉はいかなる人物で明治以降の日本にどのように貢献してきたのでしょうか?
そして、『学問のすすめ』とはどんな本なのでしょうか?
ここでは『学問のすすめ』の要点を押さえて簡単に説明します。
皆さんも時間があったら是非『学問のすすめ』の原著を読んでみましょう。
名著も今となっては電子書籍でタダで読める時代ですからね。
福沢諭吉の概略
名前 | 福沢諭吉(ふくざわゆきち) |
---|---|
別名 | 中村諭吉、福沢範、福沢子囲 |
生没年 | 1835年~1901年 |
出身 | 豊前国中津藩 |
学問 | 朱子学・陽明学・漢籍・医学・西洋政治思想学など |
著書 | 学問のすすめ、西洋事情 |
好きなもの | 酒、たばこ、西洋思想 |
嫌いなもの | 封建主義、家制度、神道信仰、流行もの |
趣味 | 居合(生涯続けた) |
主義 | 富国強兵 |
その他 | 維新で出世した幕臣はあまり好きじゃない(勝海舟など) |
福沢諭吉は1835年、摂津国堂島藩の中津藩邸にて生まれました。
父は福沢百助、大坂の鴻池ら大商人を相手に借財を行っており、一方で学者として儒学を修めていました。
しかし藩財政に大変な功績がありながらも下級武士という身分であることから、出世に恵まれないままに諭吉が1歳の時に亡くなります。
諭吉は末子であったため、最初は叔父の中村家の養子となっていましたが、のちに福沢家に復帰します。
彼は幼少期から伝統的な儒学や神道に興味がなく、お札を踏んで遊んだり神社でいたずらをするような一面もありました。
しかし家は儒家であったことから儒学や漢籍も仕方なく学び、20歳となる頃にはあらゆる漢籍を読破しておりました。
19歳で長崎に行き蘭学を学び、そして翌年には緒方洪庵の適塾に入学。
のちに勝海舟らと共に幕府に出仕しますが、そこで待っていたのはアメリカやイギリスといった国であり、今まで学んできたオランダ流の学問は全く通じませんでした。
そこで諭吉は入手困難な英語の文献を入手し英学を学び始めます。そして、諭吉は日本が世界で相当遅れている国であることを実感します。
日米修好通商条約が締結されると、諭吉は幕府の代表の1人として咸臨丸に乗船。
諭吉はアメリカでは初代大統領・ワシントンの子孫が何をしているのか知っている国民がほとんどいないことを知り、徳川家康の子孫が有能無能に関わらず為政者であり続ける日本との文化の違いに衝撃を受けました。
後に諭吉は幕府の命令で通訳として中国経由でオランダ、ポルトガル等のヨーロッパ諸国へと渡航します。
そしてこの時も、香港で中国人が人間扱いされていないこと、ヨーロッパでは当たり前の郵便・医療・選挙・議会政治といった民主主義を見せつけられて唖然とします。
この時の様子を記したのが『西洋事情』で、諭吉は日本に一刻も早い開国と根本的な政治改革を行う必要性を主張するようになります。
帰国後は幕臣として外交文書の翻訳を主な仕事とし、西洋の力を借りることの必要性を説いていました。
明治維新後は官職につくことを良しとせず、廃刀後は教育に専念します。
こうした慌ただしい改革の中で記したのが『学問のすすめ』です。
諭吉は自ら建てた蘭学塾を慶應義塾と改め、そこに自分が懇意にしている藩の藩士を大量に受け入れて近代教育に専念し、やがては学生を次々に明治政府に送り込みます。
諭吉自身は著作や教育に専念しましたが、その著作の中では、
- 日本を強い国とし、西洋諸国の侵攻から自らの力で守る必要がある
- 日本は古い封建主義から脱出するためにはイギリスのような議会制民主主義を速く導入する必要がある
- 等西洋で受けた刺激の数々を早々に日本に反映させること
を主張していました。
諭吉は自由民権運動の旗頭として挙げられる恐れもあったことから伊藤博文らに恐れられ、対韓国や日清戦争に対しては非常に積極的な意見を持っていました。
これは当時の清国の情勢を鑑みたうえで日本は軍事力によって安全を確保し朝鮮に対しては自ら指導する立場にあらねばならないと考えたからです。
結果として日本は諭吉の言った通りの道を歩むこととなり、特に日清戦争での勝利を知ったときは感極まっていました。
晩年は日本で軍部が独走していくのではないかということを不安に思いながら生涯を閉じました。
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『学問のすすめ』を分かりやすく解説
『学問のすすめ』といえば、「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」という冒頭の言葉が有名ですが、実はこの一句で完結ではありません。
原著では次のような長文が続きます。
「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らずと云えり。されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり冨めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」
簡単に訳すと、「天は人は皆平等であるというが世間を見渡すと、賢い人と愚かな人、貧しい人と裕福な人など、大きな差がある。これは何故なのか?」という意味になります。
そして、その後に続く解釈で
「こうした差は全て学問の差からできており、学ばない者は貧しく、学ぶ者は富んでいくのである。」
としています。
つまり、自分から主体的に知識や経験を身に着けていくことは身分や権力よりもずっと重要で、政府も賢い者が作れば立派な政治ができ、愚かな者が作れば結果は悲惨ということ。
「世の中は生まれや経済の差で決められるものではなく、生まれを問わずに教育によって豊富な知識を身に着け、むやみに一揆や犯罪を犯すのではなくきちんと論理的に主張することによって権利を獲得していこうではないか。」という非常に近代的な発想をとても端的に述べています。
「天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず」という言葉は福澤諭吉自身が主張したものではなく、アメリカ独立宣言の原文を翻訳したものだと言われています。
『学問のすすめ』が発表されたのは明治5年。
廃藩置県が行われて間もなくこれからどのような法律を制定しどのような経済運営を行い、そしてどのように教育を進めていくのかがまだ決まっていなかった時のことでした。
そこで諭吉が提唱したのは大変先進的なもので、諭吉はイギリスの民主主義を最終目標としていました。
また諭吉は学問と言っても最も重視すべきは「実学」、つまりすべての基本となる読み書きそろばん、それに道徳という誰もが学ぶべき普遍的な教育であり、これまで主流であった朱子学や漢籍のような難しいものは世間で言われてきたほどの価値を持たないとして過度の崇拝を否定しています。
諭吉はこうして教育は誰しもが受けるべきものだと主張しています。
この思いはやがて教育勅語、学校令という形になって実現し人々は身分を問わず教育を受けるようになれるのです。
まとめ
福沢諭吉は政治思想が最も著名ですが、実際は蘭学や英学を通じて医学や化学についても学んでおり、当時の先進的な西洋学問の大半を網羅していたと言ってもいいでしょう。
諭吉の思想は日本だけでなくアメリカ、台湾、韓国等でも議論・研究の対象となっており、その教育感や政治思想は誰もが感銘を受けるものとなっているのです。
私達が今普通に教育を受けられるのは諭吉が主張した平等に教育を受ける権利が憲法で保証されているからです。
昔はこんな優れたものはありませんでした。諭吉自身は決して政治家ではありませんが、未だ学者と政治が密接に結びついてた明治維新の頃は学者が与える影響はそれほどまでに大きかったのです。
私達はこれからも諭吉に感謝しながら日々の生活を送ることになりそうですね。
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