西郷隆盛の父・吉兵衛と母・満佐子(まさこ)ってどんな人?
薩摩が生んだ明治維新の立役者の一人・西郷隆盛。
島津斉彬の抜擢をきっかけに、薩長同盟の締結や勝海舟との江戸城無血開城など、さまざまなことを成功に導き、明治維新に貢献した人物です。
西南戦争で新政府軍と戦い、故郷の鹿児島で命を落としたことも知られていますよね。
では、そんな西郷隆盛を育てた両親とはいったいどんな人だったのでしょうか?
今回は隆盛の父親・吉兵衛と母親・満佐子(まさこ)について迫ってみたいと思います。
西郷隆盛の両親と当時の生活
隆盛の父・吉兵衛は、薩摩藩の下級武士でした。
西郷家の身分は御小姓与(おこしょうぐみ)というもので、これは10段階に分かれている薩摩藩の身分制度の中で下から2番目にあたります。
下から数えたほうが早い身分ということもあり、西郷家は当然貧しい生活を強いられていました。
現在の金額でいうと、1000万~2000万円の借金を抱えていた時期もあり、この借金は吉兵衛の死後、隆盛が返済することになります。
母・満佐子は吉兵衛との間に、隆盛・琴・吉次郎・鷹・安・従道・子兵衛と実に7人の子どもを授かりました。
満佐子の弟は椎原国幹という人物で、西南戦争で隆盛率いる西郷軍に参加しますが途中で降伏。
刑務所に入ったのち、公立鹿児島学校(現在の鹿児島県立甲南高校)の校長に就任しています。
貧しくとも…隆盛への母の教え
貧しい暮らしの中で、隆盛は長男として弟や妹の面倒を見ます。
お節句の時には絵をかいてふすまに貼ったり、十分にないふとんを弟や妹に譲るため、自分は足だけ入れて寝たり…。
いつも弟や妹のことを第一に考えていたようです。
そんな隆盛に満佐子は「貧しいことは恥ずかしいことではない。貧しさに負けることこそが恥ずかしいことだ」と言い聞かせます。
「貧しいからといって、心まで貧しくなってはならない。胸を張って、働き続けることが大切である。」
そういうことを満佐子は伝えたかったのかもしれません。
この言葉が胸に響いたのか、隆盛は大人になって高い地位に就いてからも質素な暮らしを貫いています。
この話は満佐子の人となりが伝わるエピソードです。
お由羅騒動で切腹した赤山靭負と西郷吉兵衛の関係
隆盛の父、西郷吉兵衛を語る上で外せないのが、お由羅騒動で切腹した赤山靭負にまつわる逸話です。
お由羅騒動とは薩摩藩主・島津斉興の側室・お由羅の方が自分の息子である島津久光を跡継ぎにしたいと画策したお家騒動。
薩摩藩の中では久光一派と、正室の息子である島津斉彬を跡継ぎにしたい一派が対立します。
吉兵衛はこの頃、薩摩藩の重臣である赤山靭負の家で御用人を務めていました。
御用人というのは、藩の家臣の家でお金の出し入れや雑用などを取り仕切る役割。
お店で例えれば、雇われの店長さんみたいなものです。
しかし、お由羅騒動によって赤山靭負は切腹を命じられてしまいます。
そして、一説には靭負の介錯(切腹の手助けをすること)を任されたのが吉兵衛だといわれています。
先ほど、御用人は店長さんみたいなものと説明しましたが、いくらなんでも店長さんはそんな物騒なことはしません。
しかし武士の世界では、それをしなければならないのです。
たとえそれがずっと仕えていた主人であってもです。
実際に吉兵衛が赤山の介錯をしたのかどうかは、今でもはっきりとは分かっていません。
ただ、赤山が切腹の際に身に着けていた血で染まった衣を、吉兵衛が西郷家に持ち帰り、隆盛に見せたことは明らかになっています。
そこで吉兵衛が隆盛に何を語ったのかは分かりません。
ただ、こうした吉兵衛の忠義の心は、隆盛の人格形成に大きな影響を与えたのではないかと思います。
このお由羅騒動の翌年、藩主に就任したのは島津斉彬。
そして、隆盛はこの斉彬に見い出され、自らの才能を開花させていきます。
吉兵衛と満佐子の死
隆盛が26歳の時に、吉兵衛と満佐子は相次いで亡くなります。
お墓は鹿児島市常盤町にあり、ここには隆盛の家族を含め、一族のお墓が23基並んでいます。
隆盛の本名は「隆盛」じゃなかった!?
ところで、西郷隆盛の「隆盛」という名前は、元々、吉兵衛の名前だったということを知っていますか?
吉兵衛の本名は西郷吉兵衛隆盛で、隆盛の本名は西郷吉之助隆盛なのです。
何ともややこしいですよね?
それではなぜ、親子で同じ名前を名乗ったのでしょうか?
実は、隆盛は元服(成人すること)してから「隆永」という名前を名乗ったのですが、明治維新を成しとげたのちに官位を授けられることになった時、政府が誤って書類に「隆盛」と書いてしまったのです。
原因は、隆盛の親友だった吉井友実が、子どもの頃からずっと仲良しだったにもかかわらず、隆盛の本名「隆永」を知らなかったため、間違って「隆盛」と届けてしまったからといわれています。
こんなこと、今の時代ではありえませんよね?
もしあったとしても、すぐに正しい名前に直してもらいます。
では、このトラブルに隆盛はどう対処したのでしょうか?
そもそも隆盛は、官位をもらいたくありませんでした。
なぜなら、明治維新はたくさんの人々の犠牲の上に成しとげられたものだったからです。
亡くなった人たちを差し置いて、生きている自分がそのような名誉を受けるわけにはいかない。
そう思った隆盛は辞退届を出すことにしました。
でも、ここで思い出してください。
親友の吉井が政府に「隆盛」と届けてしまったことを。
最初で書類に「隆盛」と書かれてしまった以上、辞退届に「隆永」と書くわけにはいきません。
というわけで辞退届も「隆盛」で通すことにしました。
以来、隆盛は亡くなるまでこの名前を名乗ったのです。
隆盛は体だけではなく、器も大きい人物だったのですね。
参考
維新ふるさと館「賢治先生のふるさと歴史館」 西郷の逸話~名前と幼少期エピソード~
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