正岡子規の代表作って何?夏目漱石や野球殿堂入りとの関係を解説!
正岡子規は愛媛県を代表する俳人。
数々の有名な俳句や短歌を残しています。
今回はそんな正岡子規について、代表作や野球との関係を分りやすく解説します。
正岡子規ってどんな人?簡単に解説!
正岡子規は1867年に愛媛県で生まれました。
本名は正岡常規(つねのり)、別名は正岡升です。
少年時代には自由民権運動の影響を受けて政治談議に熱を入れていました。
1883年に上京し、共立学校(現在の開成高校)に入学。
旧藩主から費用を出してもらって帝国大学哲学科に進学し、翌年には国文科に転科します。
大学中退後は新聞『日本』の記者となりました。
1895年に日清戦争に従軍記者として参加しますが、帰国の船中で血を吐き、神戸病院に入院。
体調が回復してから積極的に俳句や短歌に取り組み、新聞『日本』にも記事を書き続けます。
しかし1902年に結核が原因で起きる「脊椎カリエス」によって34歳という若さで亡くなります。
俳句・短歌の革新者!正岡子規
子規は江戸時代後期から盛んにおこなわれていた俳句を「月並俳諧」と呼んで批判しました。
ありきたりの表現で新鮮味がないというのです。
ダジャレやなぞかけ、説教臭い言い回しなど、感覚よりも思想や理屈が多いと子規は感じていたようです。
俳句を作るときに見たままのものを簡潔に書く「写生」こそが大事だと子規は主張しました。
子規の俳句は目に見えやすい視覚的で、わかりやすいスタイル。
「歌よみに与ふる書」で、それまで重視されてきた『古今和歌集』よりもストレートな『万葉集』を高く評価しています。
ホトトギスとアララギ
正岡子規が主宰し、弟子である高浜虚子や河東碧梧桐らが編集者となって松山で創刊されたのが『ホトトギス』です。
この雑誌は現在も続いています。
一方の『アララギ』は子規が作った短歌結社の根岸短歌会がもとになります。
子規は新聞『日本』に「歌よみに与ふる書」と題する連載歌論を書きます。
『古今和歌集』を「くだらない」と言い切り、紀貫之を「下手な歌よみ」と酷評するなどなかなかの毒舌ぶりを発揮。
子規の考えに賛同する人たちは子規の死後、雑誌『アララギ』のもとに集まって活動をつづけました。
“子規”に込められた思いとは
子規とはホトトギスの意味です。
これは彼の持病である結核と深いかかわりがあります。
1889年、鎌倉旅行中に初めて血を吐き、翌年に結核と診断されました。
血を吐くのは肺結核の症状の一つです。
結核が本格的に悪化したのは日清戦争に従軍した時です。
退院して松山に帰郷した時に鳴いて血を吐くという伝説を持つホトトギスに自分をなぞらえてホトトギスの別名である子規を名乗りました。
子規は生涯でホトトギスに関わる多くの句を作っています。
その一つが「卯の花の 散るまで鳴くか 子規」です。
血を吐くように俳句を吐き続けるという意思の表れかもしれません。
子規の豪華な学友たち
正岡子規の学友で親友なのが夏目漱石です。
出会ったのは東大予備門時代でで、夏目漱石は子規から俳句を学んでいます。
「漱石」は子規が使っていた数多くのペンネームの一つで、これを譲り受けました。
1895年に松山に英語教師として赴任した夏目漱石の下宿に子規が52日間にわたって居候したこともあります。
子規の死後、雑誌ホトトギスに『吾輩は猫である』を連載。
ほかにも共立学校の同級生で、のちの日本海海戦を勝利に導いた秋山真之、東大予備門の同窓生として粘菌の研究で知られる南方熊楠、文学者の山田美妙などがいます。
教科書に出てくるレベルの偉人たちとお友達だったんですね。
正岡子規が野球殿堂入り?
2002年、正岡子規は野球殿堂入りを果たしました。
「なんで正岡子規が野球の殿堂に・・・?」と思うかもしれませんが、子規は明治17年に当時まだ入りたてだったベースボールを知り、野球に熱中したといわれています。
よっぽど野球が好きだったのか、自分の雅号の一つに「野球(のぼーる)」というものまで加えてしまいました。
幼名の升(のぼる)とかけたものです。
野球を詠んだ俳句・短歌も多数作っています。
その一つ「今やかの 三つのベースに 人満ちて そぞろに胸の 打ち騒ぐかな」
正岡子規の代表作を紹介
「春や昔 十五万石の 城下かな」
一つ目は故郷松山を詠んだ一句。
明治28年に作られたものです。
江戸時代には華やかだった松山十五万石の城下町、「その華やかさも昔のことになったなぁ」という感慨を込めたものです。
「柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺」
二つ目は学校の教科書などにも出てきたかもしれない有名句。
解説がいらないくらいの写実的でわかりやすい句です。
法隆寺に参詣したのでしょう。
その帰路にでも茶店で柿を食べたのではないでしょうか?
それを食べながら法隆寺の鐘の音を聞く。
秋の情景が目に浮かびますね。
「いくたびも 雪の深さを 尋ねけり」
三つ目は、身の回りの人に何度も何度も「雪がどのくらい降ったか」と尋ねている一句。
なぜ、何度も雪のことを尋ねるのでしょう?
それは自分で立ちあがてみることができないからです。
脊椎カリエスが悪化した子規は自力で立ち上がるのが困難でした。
雪が降ったとテンションがあがって何度もそれを聞いてしまう様子が見えるようですね。
子規の最期を看取った家族たち
子規は病気のこともあり、生涯独身でした。
その死に際まで献身的に介護したのが母親の八重と妹の律でした。
律は一度結婚しましたが、翌年に離縁して正岡家に戻り子規の看病をしていたようです。
子規の死後は共立女子職業学校の事務員を経て和裁の教師となっています。
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