姫路城を築城した池田輝政の生涯とそのまとめ!

2019-12-26

世界遺産にも登録されている姫路城。

姫路城は日本人の誰もが知る大人気の観光スポットですが、初代藩主である池田輝政という名前を聞いてピンと来る人は少ないと思います。

 

池田輝政は現在の姫路城の基礎を築いた人物なのですが、その知名度はイマイチ。

そこで今回は、地味だけど実はスゴイ、池田輝政に迫って見たいと思います。

 

池田輝政ってどんな人?

関ケ原の戦いで家康について大大名となった豊臣系大名は、加藤清正・福島正則のように最後は幕府に疎まれて亡くなった人物もい多く、逆に家康に信頼されて安泰となった人もいます。

そう考えると池田輝政は後者に当てはまり、秀吉死後は家康の信頼を勝ち得ています。

 

関ヶ原の戦いの後は姫路52万石の大名となりますが、輝政の一族に与えられた領地を合計すると約100万石。

このことから徳川家は池田家をとても厚遇していたことが分かります。

 

城の無断修築で領地を減らされた福島正則や、自分の死後に改易された加藤清正とは大きく異なりますね。

 

 

略年表

1564年 池田恒興の次男として生誕

1580年 花熊城の戦いで活躍し、信長から感状をもらう

1584年 小牧長久手の戦いで父・兄が戦死したため家督を相続

1595年 秀次切腹、しかし正室だった輝政の妹は助命される

1599年 石田三成襲撃事件に実行犯側として参加

1600年 関ケ原の戦い。姫路藩52万石の大名となり姫路城を改修。

1611年 二条城会談に参加

1613年 死去

 

池田恒興の息子として

輝政は1564年、織田家臣・池田恒興の次男として生まれました。

恒興は信長の乳兄弟で早くから信長に仕えていましたが、途中から嫡男・信忠の与力武将となり独立した立ち位置だった秀吉や勝家、光秀と比べてワンランク下という立ち位置でした。

 

織田信長が生きていればそれなりの立場になっていたかもしれませんが、本能寺の変の後に起こった秀吉と家康の覇権争い、小牧長久手の戦いで戦死しています。

 

この時、輝政は家臣に説得されて戦線を離脱しています。

 

後に、輝政が家康の娘・督姫と婚姻した際に恒興を直接討ち取った永井直勝を呼び出しました。

その時に恒興の最期の様子を語らせますが、輝政は直勝の石高が5000石だと知って「父の首はたった5000石の価値か」と怒り、直勝の加増を進言したと伝わります。

 

関白秀次の義兄

家督を継いでからの輝政は各地を転戦。

輝政の妹は関白豊臣秀次の妻と正室となったため、秀吉から一族として扱われていました。

 

小田原征伐の功績で関東へ転封した家康の抑えとして三河吉田城の城主となり、尾張清洲城に入った秀次の与力となったとみられています。

そのため、彼は文禄の役でも同世代の清正や正則らと違って肥前名護屋城に兵糧米を輸送するという役割で、一度も渡海していません。

 

そして、この時期に輝政は先述の督姫と結婚し、家康とも親戚となりました。

秀次は1595年に謀反の疑いをかけられて自害しますが、秀次の側室や縁者に至るまで皆処刑された中で、彼の正室は珍しく無罪放免。

 

池田家の血筋はなぜかとても有力だったようです。

 

天下をも握れたとする実力

秀吉が亡くなると、天下は家康と利家の二派に分裂し、輝政は家康の親戚だったこともあり迷わず家康につきます。

そして利家が亡くなると清正、正則らとともに三成襲撃にも参加。

他の豊臣大名と同じ行動を取っているところを見ると、輝政の中にも三成憎しの感情があったのかもしれません。

 

そして関ヶ原の戦いの前哨戦となる岐阜城攻めにも参加。

岐阜城はかつて自分の居城だったこともあり、輝政にとってはそれほど困難な戦ではなかったはずですが、同じく先鋒だった福島正則が短気だったことを鑑みてわざと歩調を合わせて彼に花を持たせたといわれています。

この岐阜城攻めの逸話には、輝政が一番乗りだったものをあっさりと功を福島正則に譲って同着となったとするものや、輝政が抜け駆けして先に到着し、それが引き金となって正則と激しい喧嘩になったという説もあります。

 

続く関ケ原本戦では南宮山の毛利隊を牽制する役割で大きな功績はありませんが、岐阜城攻めの一番乗りが評価されて姫路52万石の大大名となっています。

 

関ヶ原の本戦で目立った武功がないにも関わらず大出世した輝政。

家康は信頼の置ける人物として、武功よりも輝政の人柄を評価していたようですね。

 

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そんな輝政の性格を表す逸話にこんなものがあります。

輝政は身長が低く、ある酒の席で身長の低さをバカになれたことがありました。

するとスッと立ち上がった輝政は「武功があり、広大な領地もある。さらに身長まで欲するのは欲張りだ」といって即興で舞を舞ったとされています。

 

この逸話は創作の可能性が高いですが、本来の輝政もこうした懐の深い人物だったのではないかと思います。

 

姫路城主として

姫路城は代々小寺氏の居城で、秀吉の中国征伐以降は秀吉、秀長、そして木下家定(北政所の兄)と豊臣の親族が居城とした城でした。

 

姫路に移封となった輝政はさっそく姫路城の改修に着手。

秀吉時代にあったとされる三層の天守を取り壊し、姫路城を現在のような優美な姿に生まれ変わらせます。

(後に本多氏によって拡張されてます)。

 

姫路城は地理的に戦に有利な場所にあるとは言えないため、姫路城ではなく新たに別の城を建てようと進言する家臣もいましたが、「もし攻められたのならば籠城せずに討って出ればよい」と姫路城の改修を決めたとされています。

 

輝政の築城した姫路城は戦や火災に遭うことなく、当時のままの姿を残してくれています。

私たちが姫路城を見られるのは、まさに池田輝政のおかげです。

 

輝政は、1611年に家康と豊臣秀頼の二条城会談に参加した後の1613年に亡くなりますが、その死が突然すぎたため、秀吉の呪いか徳川による暗殺かとまで噂されていたようです。

 

輝政の死因は中風ではないかと言われています。

 

家康を選んだという慧眼

池田家は元々尾張の地主でした。

恒興の時代も秀吉や勝家と比べたらその地位は一城主という立場から逸脱しません。

しかし輝政は秀吉・家康とも親戚となるなど秀吉個人に忠誠を誓ったわけではないという感覚を感じました。

 

同じく家康と政略結婚をした清正・正則らは出自からして秀吉に個人的な恩義を感じて行動したというのが本音でしょう。

しかし輝政は本来なら家康や秀吉と同等の立場、そのため忠誠の対象が異なっていたのだと思われます。

 

一見同じ豊臣系大名でもその実は出自や背景、視点が大きく異なるので面白いです。

輝政は目立つこともしますが気が短いイメージはありません。そこが先述の正則との器の差なのかもしれませんね。