天皇をも動かす歌の名人!細川藤孝(幽斎)が実はめっちゃ凄い件!

2019-12-26

今回は戦国武将でもあり、一流の文化人でもある細川藤孝。

本能寺の変の際、明智光秀が頼りにしていたとされる藤孝ですが、彼はなぜ明智軍に味方をしなかったのでしょうか?

※明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が藤孝の息子・忠興の妻になっています。

 

今回は光秀と関わりの深い細川藤孝について詳しく見ていきましょう。

 

細川藤孝ってどんな人?簡単に解説!

細川藤孝の肖像画

【出身国】京都

【生没年】1534 年~1610 年 享年 77 歳

【同学年】織田信長、小田氏治など

 

【簡単にまとめると】

  • 第十三代将軍足利義輝、さらに第十五代将軍足利義昭に仕え深く信頼される。
  • 織田信長と足利義昭が不仲になるとさっさと義昭を見限って信長の部下に。
  • 娘婿の光秀が本能寺の変を起こした時も同調せずに中立を保つなど究極のリアリスト。
  • 藤孝が篭城していた際、天皇が「そいつすんげぇ和歌うまいから戦やめろ(意訳)」と敵側にわざわざ命令する程度に高い教養を持つ。
  • 北畠具教、足利義輝とともに塚原卜伝に剣術を師事し、また弓術は日置流の印可を持つ。
  • 京の路上で向かってきた牛の角を掴んで投げ倒すほどの力持ち。

 

細川藤孝は最初は足利幕府の幕臣として、そして織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の家臣になるという具合に、時代の移り変わりを巧みに切り抜けてきた戦国大名。

その一方で、古今和歌集の読み方や解釈を一子相伝で継承していく古今伝授を三条西実枝から受けた文化人でもあります。

 

和歌だけではなく茶道・蹴鞠・囲碁・料理にも通じた風流人で、剣術、弓術の腕も抜群。

政治や外交でも活躍した万能タイプの武将です。

 

身分の高いお坊ちゃまだけど、実は苦労人の藤孝

細川藤孝は三管領家のひとつ、細川家の分家筋の三淵晴員の息子として生まれます。

5歳で将軍に謁見し、7歳の時に細川元常の養子となって細川姓になり、1546年の元服の際には時の将軍足利義藤(のちの足利義輝)から一字をもらって細川藤孝と名乗ります。

 

室町幕府が存続していれば幕府の要職についたままだったかもしれませんが、時代は細川藤孝を戦国の荒波へと投げ込みます。

 

1565年には将軍足利義輝が三好三人衆の手によって暗殺されるという事件が勃発。

このまま彼らに好き勝手させてはならぬと細川藤孝は仲間とともに興福寺に幽閉されていた足利義秋(のちの足利義昭)を救出。

その後、灯篭用の油にも事欠くような流浪の生活を続けて様々な場所を転々とし、越前の朝倉義景のもとへと身を寄せます。

 

明智光秀の取り持ちで朝倉義景から織田信長に鞍替え

匿ってはくれるもののなかなか京へ上洛をするための兵を出してくれない朝倉義景に痺れを切らす足利義昭。

そんな足利義昭と細川藤孝に「朝倉義景よりもっと頼りになる大名がいるぞ」と言ってきた武将がいました。

 

それが明智光秀です。

光秀は当時信長が美濃の斎藤家を倒したことを引き合いにも出しつつ「義景は頼りにならない男だが信長は頼れる男だ」と主張。

その話に興味を持った義昭は藤孝を信長への使者として派遣します。

 

織田信長の肖像画

 

その後も信長と謁見を重ねた藤孝でしたが、何度か信長と会ううちにあることを確信します。

「あ、これ朝倉よりも信長のほうがええわ」

 

信長との蜜月の時も長くは続かず…

このあたりこの細川藤孝は「まぁでも朝倉さんにもお世話になったし……」とか考えません。

徹底した現実主義で、一日でも早く上洛するためにはどちらに付くべきかと考えて迷わず織田を選択します。

 

京への上洛戦を見込む相手として朝倉義景から織田信長へと鞍替えした義昭と藤孝。

藤孝の見込んだとおり信長の行動は即断即決でした。

 

最初に藤孝に折衝してからたった2ヶ月1568年9月には上洛戦を開始、同年には上洛への通り道にあった六角承禎を観音寺城の戦いで破り、さらにそれから1ヶ月後の10月には三好三人衆から畿内を奪取。

 

足利義昭は晴れて第十五大将軍に就任し、幕府が再興されました。

その後も藤孝は諦めきれずに京へちょっかいを出してくる三好三人衆と戦ったり、畿内に残っている反幕勢力の残党のこもる城を落としたりと畿内を転戦する日々が続きます。

 

当時、信長は本拠地の美濃に帰っていたので、藤孝は信長との連絡役となっていた光秀を通して信長と連絡を取り始めます。

 

こうして藤孝は将軍義昭の連絡役としても光秀とともに働くことになります。

 

暇ではない日々ではあったもののこのまま信長と義昭が仲良くやっていれば幕府も安泰。

いやーよかったよかったと思っていた(かどうかは定かではない)藤孝でしたが、ここでまたしても事態はこじれ始めます。

 

というのも、将軍である義昭が信長のことを疎ましく思い始めていたからです。

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義昭が将軍に就任してから約一年後、信長は義昭の行動を規制する殿中御掟という掟書を義昭に承認させます。

 

しかし義昭はこれが気に食わず、一切従おうとはしません。

信長と義昭の連絡の最前線にいる藤孝はすぐにこの両者の緊張関係に気がつきます。

そしてこの件を信長への連絡役である光秀に秘密にしておいていいか考えます。

 

幕臣としてずっと働いてきた藤孝の立場としてはもちろん信長に義昭の叛意を黙っておくべきだというのはわかっていました。

しかし、藤孝は信長の実力を誰よりも見知っていました。

 

義昭が信長を裏切る?俺はどうしよう・・?

しかし彼はやはり幕臣であるより前に一人の戦国武将でした。

彼はすぐさま将軍の叛意を信長に密告します。

 

その結果、1573年の7月に義昭は槇島城に籠城。

信長は七万の軍勢で槇島城を取り囲みます。

その中には細川藤孝の姿もありました。

 

義昭もこの兵力差には叶わず1ヶ月足らずで降伏。

河内若江城へと落ち延びます。

 

これ以降細川藤孝は完全に信長の家臣となり、息子の忠興が明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚します。

 

光秀も信長を裏切るの・・?

色々あったものの信長による天下統一は目前。

さらに信長の腹心の部下光秀とも親戚関係となり、これで安心できると思った(かどうかは定かではい)藤孝。

しかし、時代は藤孝を休ませてはくれず、さらなる試練を与えます

 

そう、それは6月2日の未明のことでした。

突如として光秀は援軍に行くはずだった軍勢を反転させ京にいる信長を急襲。

本能寺の変と呼ばれる謀反を起こします。

 

今でもよく動機がわかっていないこの事件ですが、実際に藤孝も光秀の謀反の理由がよく分かってなかったようです。

 

まず最初にやってきたのは光秀の使者でした。

信長を殺したので味方して欲しいという内容です。

 

当時の藤孝の言葉を代弁するならば「とんでもない」といったところでしょうか。

藤孝は息子の忠興とともに「信長の喪に服す」といった名目で剃髪し喪に服し、ついでに隠居します。

つまり戦いに参加する気はないという意思表明をした訳です。

 

幽斎という名前を名乗るのもこの時からですが、これも実に藤孝らしい判断と言えます。

 

そうこうしてるうちに中国大返しと呼ばれる強行軍で帰ってきた秀吉が山崎の戦いで光秀を撃破。

その後は秀吉にもその才能を買われて重用されます。こうして藤孝は家を守ることに成功するのです。

 

最後にして最大のピンチ

さて、前述のとおりこの時点で既に藤孝は隠居しているのでこれ以降歴史の表舞台で活躍することはなくなります。

まぁ現役中はいろいろあったけど、隠居したしこれからは好きな和歌とか茶の湯でも楽しみながらゆっくり過ごせるよねと思っていた(かは定かではない)藤孝でしたが、さらなるピンチが襲います。

 

それは秀吉が死んだ後の1600年9月のことです。

関ヶ原の戦い直前の田辺城にいた細川藤孝のもとに1万5000程の軍勢がやってきます。

 

率いるのは小野木重次、前田茂勝ら西軍の諸将です。

そうです、実はこの時細川藤孝の息子忠興が東軍側についていたのですが京を占領した西軍によって東軍の各城が攻撃されていました。

 

敵の軍勢は1万5000。

それに対して藤孝側は忠興が軍勢を率いて出陣していたため、500人程度しか残っていませんでした。

 

篭城戦は城にこもる方が有利とは言え、この軍勢差……。

絶体絶命かと思われましたが、藤孝はなんとか2ヶ月も持ちこたえます。

 

そんな中、藤孝の状況に慌てたのが皇室でした。

実は細川藤孝は三条西実枝から歌道の奥義とも呼ばれる古今伝授を相伝されており、藤孝が亡くなると、この古今伝授が断絶してしまう状況だったのです。

 

これが冒頭にもお伝えした、「そいつの歌はやばいから戦やめろ」事件の全容です。

天皇の命令により、降伏した藤孝の身柄は別の城へと移されます。

 

ちなみにこの戦いに参加した1万5000の軍勢ですが、結局関が原の戦いに間に合わず西軍が敗北してしまいます。

 

歴史にもしはありませんがもしこの時藤孝が田辺城でこの軍勢を引き止めていなかったら関ヶ原の戦いは……、と考えてしまいますね。

 

待ち焦がれた隠居生活

この頃既に70歳に近かった細川藤孝でしたがこの先は京都で悠々自適な生活を送ります。

一方で細川家は忠興が関ヶ原で奮戦したということもあり豊前小倉に39万9000石を、さらに後には肥後54万石を与えられ肥後細川家の礎を築くことになります。

 

細川藤孝は1610年まで京都吉田にて悠々自適の生活を送り、最後は京都三条車屋町の自邸で死去。

享年77歳でした。

 

家を守るため、家族を守るため、常に全力で選択し戦った一人の戦国武将は最後は畳の上での安らかな死でした。

 

お墓は京都市とそして、熊本県の竜田口駅の近くにある泰勝寺にも墓所があります。

 

細川藤孝が登場するおすすめ作品

細川藤孝が登場する漫画でおすすめなのが「へうげもの」という作品。

「へうげもの」は古田織部を主人公とした戦国時代の茶の湯の世界を描いた漫画です。

 

細川藤孝も茶の湯の大家の一人として登場する一方で、息子の細川忠興を殴りつけて家を破壊するわ筆頭茶道を決める茶会に奇抜な格好で望む織部にぶちきれるわと非常にパワフルな人物としても描かれています。

 

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