井伊直弼の安政の大獄と桜田門外の変を分りやすく解説!!

2019-12-26

吉田松陰を捕え処刑した人物として有名な井伊直弼。

井伊が行った安政の大獄では100人以上の志士が粛清されたと言われています。

 

今回は、この安政の大獄が行われた背景と、井伊直弼という人物について迫ってみたいと思います。

 

井伊直弼を簡単に解説

井伊直弼は徳川幕府の『大老』という役職にありました。

『大老』とは幕府の中の最高の役職で将軍の下に君臨するNo,2というポジション。

 

そんな重要なポジションに就くだけあって彦根藩(今の滋賀県)の藩主だった井伊直弼は、幼少の頃より国学や芸術、剣術などを学び、その聡明さは広く知れ渡っていたようです。

 

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そして直弼は自信家でもあったのか、幕府の最高職に就任してからは強烈なリーダーシップでその政治手腕を存分に発揮していきます。

 

当時の幕府や諸藩の考え方は、外国を追い払うという『攘夷』という考えが多数を占めていました。

時の天皇であった孝明天皇も攘夷思想を持っていたとされています。

 

この攘夷という考えは、とにかく外国に屈することなく戦をしてでも追い払おうというもの。

しかし、直弼は『現状では外国と戦をしても勝てないので開国して国を強くすることが先決』という考えを持っていました。

 

独断で通商条約を締結

そんな井伊直弼は鎖国をしていた日本にあって、独断で諸外国と通商条約を締結してしまいます。

基本的に幕府というのは天皇から政治をする権利を与えてもらっているだけで、天皇の代理で政治を行っています。

 

そのため、重要事項を決定する時には天皇の許可をもらう必要がありました。

しかし、この通商条約の締結に関して直弼は孝明天皇の許可もないまま独断で条約を締結したのです。

 

幕府の最高職とはいえ、このやり方はあまりにも横暴。

この強引なやり方が幕府内外からも強い批判を集めることになってしまします。

 

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安政の大獄を行う

さらに直弼は自分のやり方に反対する藩主や幕臣たちを蟄居や謹慎に追い込み、幕府内での勢力の増大を図ります。

この行いが幕府内だけにとどまらず攘夷思想を持った武士や公家も標的にされ、多くの志士が投獄されています。

 

この時に投獄や処刑された人物は100人以上におよび、有名な人物では橋本佐内や梅田雲浜、もちろん吉田松陰もその1人です。

この一連の大弾圧を安政の大獄と呼び、この安政の大獄で井伊直弼は多くの人物を弾圧したため、多くの志士から恨みを抱かれる存在になっていきます。

 

一説によると、本来は吉田松陰も処刑という重い刑ではなかったものを井伊直弼が独断で刑を変更したとも言われています。

 

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桜田門外の変

独断での通商条約の締結や安政の大獄によって井伊直弼に向けて高まっていた反感は限界値を超え、ある時に大爆発してしまいます。

そして起こったのが桜田門外の変。

 

現在も東京の江戸城跡に残る桜田門。

井伊直弼はここから僅か500m離れた彦根藩邸から駕籠に乗って江戸城に向かっていました。

 

季節は3月で雪が降っていたとされていますが、その途中で井伊直弼のやり方に反発する18人の浪士に襲撃されます。

直弼の警護の武士は刀を袋に入れて帯刀していたため応戦できず、駕籠に乗っていた直弼も引きずり出されて首を取られてしまいます。

 

わずか18人の浪士が幕府の最高権力者を江戸城の桜田門の直前で斬殺するという前代未聞の事件は、井伊直弼に対する浪士たちの怒りの大きさを窺う事ができます。

吉田松陰ファンからすると、独断専行の政治に加え、強引な弾圧をした報いだという気持ちも強いでしょうね。

 

まとめ

通商条約を独断で結んだ件に関しては、もしかするとも早急に条約を締結しなければいけないような状況にあったのかもしれません。

独断で事をなすという事は、自分が一身に責任を負うという事なのでそれなりの覚悟がないとできるものではありません。

 

しかし、それに続いて安政の大獄で吉田松陰を始め、多くの日本の将来を憂う志士を弾圧するといったやり方が周囲の理解を得られなかった原因であると思います。

 

ちなみに井伊直弼の墓所は世田谷の豪徳寺にあるのですが、その近くには吉田松陰が眠る松陰神社があります。

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ここにある松陰の墓所は高杉晋作達が松陰の遺骨を改葬して作った物なのですが、この2人が僅かな距離しか離れていない場所で眠っている事を考えると、奇妙な因果を感じずにはいられません。