井伊直政が率いた赤備えって何?武田信玄の家臣から続く系譜を解説!
井伊直政は行政でも優れた功績を残していますが、何と言っても戦での功績が有名です。
直政が率いたとされる部隊が全身赤色の鎧を身にまとった『井伊の赤備え』。
現在、赤備えと聞いたら【とても強い精鋭部隊】【勇猛果敢な猛将の集まり】というイメージが一般的ですよね?
しかし、この赤備えは井伊直政が元祖ではありません。
その由来は武田信玄が率いた軍団だったと言われています。
では、なぜ敵対していたはずの武田の赤備えを井伊直政が率いていたのか?
今回は、『井伊の赤備え』とその歴史的な意義について考えてみましょう。
赤備えの元祖は飯富虎昌(おぶとらまさ)・山県昌景(やまがたまさかげ)兄弟
記録がある中で一番最初に赤備えを用いたのは武田信玄に仕えた飯富虎昌だとされています。
赤=朱色は本来武士の中でも特に戦果が大きい者のみに与えられた誉れ高いものでしたが、虎昌は自軍の部隊に武将の次男達を集めて騎馬兵のみの突撃部隊として赤備えを編制しました。
なぜ長男がいないのかというと、武将の長男は家を継ぐという大役があるから。
長男が戦で亡くなってしまうと家の跡継ぎを失ってしまうため、戦には次男が駆り出されたというわけです。
とは言っても、戦で功績を挙げれば出世の道も開けるもの。
そのため、家を継ぐ立場にない次男たちは戦場で手柄を立てるために大いに活躍したようです。
そういえば、若き日の信長も自分の側近には武士や卑賎の身に生まれた次男坊等を引き立てたという話があります。
前田利家、滝川一益等も本来は家督を安穏と告げない立場にいたんですね。
虎昌率いる赤備えは常に最前線にて戦う切り込み隊長として活躍しました。
しかし、虎昌が武田義信の謀反に連座したとして切腹。
今度はその弟(甥説もある)の山県昌景(本来の姓は飯富だが、虎昌死後に改姓)が赤備えを受け継ぎました。
虎昌、昌景のおかげで武田軍における赤備えの立場はとても高くなり、やがて主力部隊としての立ち位置を獲得したとされています。
当時、武田家では部隊ごとに色を分けるという規定が定められていたらしく、赤備えは数ある部隊の1つという立ち位置だったのです。
赤備えはおそらく昌景が長篠で戦死した後も受け継がれたのでしょうが、結局度重なる失敗で巻き返しを図ることができなかったようです。
そのため、1582年(天正10年)に武田家は滅亡してしまいます。
武田から徳川へ 井伊の赤備えの誕生
武田家を直接滅ぼしたのは信長の嫡子・信忠率いる討伐隊と同盟相手である徳川家康でした。
その後、本能寺の変に絡む天正壬午の乱を経て北条と和睦した家康は、甲斐・信濃を手に入れ、武田の旧臣を多数召し抱えることとなります。
つまり武田家という大きな会社が倒産して、無職になったり、一時的に他の会社に雇われていた社員を徳川家で再雇用したというわけです。
そして武田の旧臣達のボスに任命されたのが井伊直政。
旧武田家臣の中には旧今川家臣もいたらしいので、そうした縁を利用したのかもしれません。
家康は直政にかつて自分を完膚なきまでに叩き潰した武田流の軍隊を自軍のものとするよう命じました。
こうして、徳川の下で一度は失われたはずの赤備えが再び世に現れました。
そして1584年の小牧・長久手の戦いで井伊の赤備えは初陣。
この時、直政は羽柴軍を大いに恐れさせ、長槍で敵を蹴散らしていく姿は【井伊の赤鬼】として知られていくこととなりました。
以後の井伊家では一切の武士は赤備えを率いることと直政によって規定されることとなり、あらゆる戦で赤備えが見られることとなったのです。
こちらも歴史を持つ、真田の赤備え
もう1つの有名な赤備えに、大坂夏の陣で真田幸村が率いた「真田の赤備え」があります。
真田の赤備えも幸村が元祖だと思われていますが、実はそうではないようです。
秀吉存命中の文禄2年(1593年)に真田信幸が武者揃え(武士達が鎧を着て軍を披露する)を命じられた時、「いつもの如く赤の鎧に、指物は朱音色に」といつものように赤備えを準備するように部下に命令しています。
つまり、大坂の陣の少なくとも20年以上前には真田に赤備えが用いられていたことがわかっています。
秀吉が天下を統一する前には真田の赤備えは普通に見られていたのかもしれません。
朝鮮出兵や上田城防衛線で彼らが赤備えを用いていたかは定かではありませんが、信幸のいうとおり「いつものこと」であるならば昌幸、信幸、信繁は赤備えを常用していたのかもしれません。
結局どちらも武田由来?
井伊の赤備えと真田の赤備え。
少なくとも直政に関しては武田の旧臣をそのまま受け継いでいるので赤備えの本流と言えます。
ただ、真田に関しても元は武田家臣なのでこちらも本流。
武田信玄の元で育った赤備えが敵と味方に分かれて戦ったのが大阪の陣だったということですね。
大坂夏の陣で信繁と相対したのは同じ赤備えの井伊直孝(直政の次男、直政は既に死去)でした。
この戦い自体は信繁の勝利に終わりますが、直孝は後に秀頼・淀殿親子を最終的に追い詰めたことで戦功を挙げ、またその勇猛さを陣中にて広く知られることになります。
赤備えに関するこんな逸話も
実はこの時の井伊直孝隊の軍装は伝統的な赤備えではなく、煌びやかな新しい軍装に変わっていました。
家康はこの姿を見て「ああ、井伊家の赤備えも平和ボケして落ちぶれたもんだよ。」と嘆いたと伝わります。
しかし、中に未だ古い赤備えを使っている武士がおり、彼が武田から来た家臣団であることを確認すると「あれこそが真の赤備えである。」と安心したそうです。
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その後の赤備え
井伊家では先述の通り江戸時代になっても赤備えを引き続き使っていました。
幕末の黒船来航の際にも彦根藩がそれに備えて警備隊を編成した際には赤備えを用いています。
また、長州征伐や鳥羽・伏見の戦いでも彦根藩は相変わらず赤備えを使用していました。
しかし、やがて彦根藩は新政府軍に寝返ることとなります。
この際に藩士達は井伊家の象徴である赤備えを脱ぎ捨ててしまったといいます。
赤備えは武士の時代が終わると同時にその役目をも終え、今となっては伝承の中でしか知られない存在となってしまったのです。
まとめ
赤備えといえば武田(山県)、井伊、真田が有名ですが、他の大名家でも赤色、もしくはその他の色によって部隊を分けるという方法は用いられていました。
例えば、信長時代の前田利家は赤母衣衆(せきほろしゅう)という信長直属の親衛隊に所属していましたが、その名の通り母衣を赤色に染めて所属を明示していました(同様の通りで黒母衣衆もあります)。
こうした方法は、武士が組織として発展していく中で生まれていった進化でした。
つまり、個人の武勇だけではそう簡単に下馬評を覆すのが難しい時代になっていたのです。
しかしそれを上回るほどに突出した武勇を示した井伊や真田はやはり戦国時代の中でもかなり特殊な存在でしょう。
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