三国志とは違う時代?キングダムの春秋戦国時代を解説!
2006年に週刊ヤングジャンプで連載を開始して以来、既刊44巻、未だ人気の冷めやらない中国古代の戦国時代をテーマにした伝奇・武侠漫画『キングダム』。
日本では昔から中国の歴史をテーマにした小説や映画が数多く発表されてきました。
日本で人気の中国史と言えば、お馴染みの『三国志』を筆頭に、『項羽と劉邦』『殷周伝説』『西遊記』『水滸伝』など、様々な時代がテーマとされてきましたが、『キングダム』が取り扱っているのは中国古代の春秋戦国時代(正確には戦国時代末期)です。
メディアをきっかけにすっかり歴史にハマってしまった、本格的に勉強を始めた、という人も多いでしょう。
実は著者もその1人です。
マンガが大ヒットしたということもあって『キングダム』をきっかけに春秋戦国時代に興味を持った人も多いでしょう。
では、具体的に春秋戦国時代とは中国の中でどんな時代だったのでしょうか?
初めて歴史を知った人にとって、時代の時系列と名称を覚えることほど難しいことはありません。
そこで、今回は「断片的に『三国志』なら知っているけど、他の時代は全く知らない・・・・。」「えっ、『三国志』と春秋戦国時代ってどこがどう違うの?」という人でも10分で春秋戦国時代を理解できるように説明してみましょう。
春秋戦国時代の名前の由来
歴史の時代名は、だいたいその時代の中心地だった場所や王朝、中心だった国の名前から取ってつけられています。
例えば、日本で言うと平安時代は京都の平安京が首都だったから平安時代、江戸時代は江戸城に幕府(ひいては政治の中心地)があったから江戸時代といった感じです。
このように、日本は古代から現代までずっと『日本』として世界で知られていたので、政治の中心がどこで誰だったのかという視点から名前をつけられます。
一方、中国の場合は、日本と違って時代ごとに王朝、つまり国の名前がコロコロと変わるので国名で呼ばれることが多いです。
『三国志』の時代は曹操一族の魏(ぎ)・孫権一族の呉(ご)・劉備一族の蜀(しょく)という3つの国が中国大陸に一度に存在していたことから、歴史学での正式な呼び名は「三国時代」と呼ばれます。
中国は長い歴史の中で幾度も国が変わり続けました。
その中で、新しくできた王朝が自分より先代の王朝の記録をまとめて『自分こそがこの中国大陸の真の支配者なのだ!!』と自分の国の正統性を示すために歴史書を作るという習慣ができたのです。
この考え方は今からおよそ2100年前、前漢(ぜんかん)時代に司馬遷(しばせん)が『史記(しき)』という伝説時代から前漢時代までの通史をまとめたことから始まりました。
歴史の編纂(へんさん)は国家の予算を用いて行われた一大事業で、祭祀儀礼や学問のイデオロギーにも関わる重要な問題でした。
司馬遷はそれまで大々的に行われたことのなかった歴史書の作成のために、若い頃から自ら中国大陸各地を行脚し多くの資料を集めました。
その過程で彼の手許には亡国の歴史書や思想家達の経典、そして21世紀の我々からすると一見して摩訶不思議な伝説や伝承までもが揃いました。
その中の1つに、儒教の開祖である孔子(こうし)が記したとされる『春秋(しゅんじゅう)』という歴史書がありました。
『春秋』は『史記』のような紀伝体(1人の人物の生涯をたどる形式)のスタイルではなく、日記のように【何月何日、天気は何何、今日は誰がこんなことをした】という書き方をされた編年体というスタイルで書かれた歴史書でした。
そのため、「あの孔子様が書かれたのだから、裏に何か彼の思想が隠されているはずだ!」と考える学者が後世数多く現れ、数千年にも渡って解釈・議論が繰り返されてきました。
これを総称して『春秋学』と呼んでいます。
さて本題に戻ると、『春秋』に書かれている内容は、司馬遷が生きた前漢時代からさらに700~400年前の時代の魯の国(現在の山東省、現在も孔子の故郷として超有名です)の記録でした。
当時の中国は周王朝が支配していた時代でした。
周王朝は『史記』の最終的な記録上およそ800年も続いたとされるとても長い王朝ですが、そのために一般的に3つのタームに区分されます。
- 1つ目は国の発祥である紀元前1046年から12代国王である幽王(ゆうおう)が反乱によって殺される紀元前770年まで(都が現在の西安にあったので西周と呼ぶ)。
- 2つ目は幽王の死によって都を遷都した紀元前770年から周王朝を差し置いて諸侯が台頭し、一大国だった晋(しん)が韓・魏・趙の3つの有力な氏族に取って代わられる紀元前403年まで。
- そして3つ目が晋が分裂した紀元前403年から秦の始皇帝が中国大陸を統一した紀元前221年までを言います。
一般的に周王朝の時代といえば幽王が殺された時までを指します。
それ以降の呼称は、2つ目のタームが孔子の『春秋』が記してある時代と重複するため「春秋時代」、3つ目のタームが周王朝の権威が利用する価値を完全に失い諸侯の時代となったことから「戦国時代」といいます。
「春秋時代」と「戦国時代」をさらに細かく違いを掘り下げると、「春秋時代」の戦争は、権威を失った周王朝を誰が中心となって盛り立てるのか?という一種の権力闘争でした。
そのため、王は周王朝の王ただ1人でその他の諸侯は皆「公」や「侯」を名乗っていました。
周王朝は建国以来、功臣や親類を各地に赴任させ、そのまま土地を与える「封建制(ほうけんせい)」というやり方をしていました。
要するに、周王朝をリーダーとした緩やかな分国統治です。
そのため、諸侯はあくまで周王朝の臣下であるという姿勢を表向きは崩さずにいました。
しかし、そのシステムは周王朝の親類であったはずの晋の主君を、全く関係のない韓・魏・趙の氏族が放逐して下剋上で主君となったことで崩壊を始めました。
こうして「戦国時代」が始まると、「もう周王朝など関係あるか!!」という諸侯が次々と現れ、最終的に60以上もあったとされる諸侯が秦・燕・斉・楚・趙・魏・韓という7つの国を中心に(実際はまだまだ小さな諸侯も存在していた)統合されていきました。
「戦国時代」になると、各国はそれぞれ周王朝を無視して「王」を名乗り始めます。
「春秋戦国時代」という呼び方は、”周王朝が形だけ存在していましたが実態をなくしていた戦乱の時代”という意味を指しているのです。
春秋戦国時代と『三国志』の違い、そして中国古代史の時系列
春秋戦国時代についてはとてもよくわかりましたが、『三国志』からはどれくらい時代の距離があるのでしょうか?
中国の歴史はそれこそ国と国の入れ替わりの歴史で、戦乱の時代が幾度もありました。ここでは、一般的に『中国古代』と呼ばれる時代をの流れをざっと俯瞰してみましょう。
『史記』によると、中国の歴史は神々(詳しすぎると煩雑になるので今回は割愛)が活躍した伝説時代と言われる時代から歴史を紐解き、そこから最古の王朝である夏(か)王朝が発祥します。
2016年現在、実在が確認されているのはこの夏王朝からです。
しかし、夏王朝に関しても記述は伝説や伝承が中心で長らくその正体は明らかになっていません。
夏王朝は最後の王が臣下に位を譲ってその生涯を閉じました。
この臣下が興したのが、商(殷)王朝です。
しかし、商王朝もまた最後の王が暴虐だったので臣下によって滅ぼされてしまいました。
この辺りの話は『殷周伝説』『封神演義』が詳しいので、興味のある人は読んでみましょう。
さて、商王朝を滅ぼした臣下が建てたのが周王朝です。歴史学上、学問として確かな方法で検証できる時代はこの周王朝からとなります。
前述のとおり、周王朝は700年もの長い間存続していた長命の王朝ですが、実際に機能していたのはその半分にも満たない期間でした。
春秋戦国時代は周王朝の時代の中でも特に紀元前770年~紀元前221年までを指し、日本では未だ文明が発達していたかどうかも怪しい頃の時代です。
春秋戦国時代は、『キングダム』の主人公の1人・贏政(えいせい)によって終わりを告げます。
彼こそが歴史上あまりにも有名な始皇帝です。
彼は数々の改革を行う一方で不老不死への探求を怠らず、生まれたばかりの統一国家を急進的に作り上げようとしました。
しかし、その夢半ばで彼が果てるとあっという間に秦王朝は崩壊を迎えます。
この始皇帝死後の動乱から400年の栄華を誇った漢王朝が出来るまでの物語が『項羽と劉邦』です。
劉邦が項羽を倒して漢王朝を開いたのが紀元前202年、始皇帝の死は紀元前210年の話なので、始皇帝の死後たった数年で彼の夢は潰えたことになります。
劉邦は始皇帝のあまりにも急進的な改革から学んで、徐々に漢王朝による支配を強めていく方法を取りました。
これが完成するのが、建国から80年あまり後に始まる7代武帝劉徹の時代です。
歴史の教科書でも、劉邦と漢の武帝は有名な人物です。
武帝は儒教を中国全土に普及させたり、はたまた度々戦争を行って領土を拡大し現在の中国の領土をほぼそのまま確立した人物として歴史上でも重要な人物として名が挙げられます。
彼は中国の歴史上、54年間という長きにわたって皇帝であり続けた稀有な人物としても有名です。
武帝が亡くなると、漢王朝はおよそ100年の時間をかけて衰退していきます。
最後のとどめを刺したのは、王莽(おうもう)という儒教の狂信者でした。
西暦8年、ちょうど紀元前から紀元後に切り替わる時代に中国も大変革が起こっていたのです。
王莽の建てた新(しん)王朝は、その後14年という短い歳月で滅ぼされてしまいました。
彼があまりにも現実離れした政治ばかり行っていたため、民衆や豪族の怒りが爆発したのです。
その中の1人に、漢の皇族の末裔である劉秀(りゅうしゅう)がいました。
彼は紆余曲折を経て王莽を滅ぼし、祖先と同じく漢王朝を建てました。
農民反乱、それに王莽死後に割拠した群雄達を全て平定して再び中国を統一したのです。
漢建国が西暦25年、天下統一が36年ですが、劉邦の漢を前漢、劉秀の漢を後漢(ごかん)と呼びます。
しかし、後漢王朝も150年後の世界ではすっかり衰退してしまいます。
後漢の皇帝は初代と2代を除き、ほぼ年少で亡くなっていたので側近や宦官、外戚が皇帝を傀儡として政治を独占していたのです。
結果、賄賂が横行し当時頻発していた天災も相まって民衆はとある宗教にすがりました。
それが張角が開いた太平道=黄巾党です。
西暦184年、ついに張角を筆頭とした民衆が全土で蜂起します。
これが『三国志』のスタート、黄巾の乱です。
『三国志』はここからおよそ100年にわたる群雄と帝国の興亡記の物語。
『三国志』の時代は100年で終わり、結果中国を統一した晋は内乱で36年で統一王朝の時代を終えてしまいます。
ここから中国大陸は異民族と漢民族が次第に統合していく長い動乱の時代を迎え、次に統一されるのはおよそ300年後の隋(ずい)・唐(とう)の時代です。
日本では中国古代文明の発祥から『三国志』の終焉までを中国古代史と位置付けています。
ところで、『キングダム』をはじめ多くの歴史物語では主人公やメインの時代のタイトルをつけられます。
しかし、『三国志』に限っては、後漢~三国~晋と時代を隔てていきながらもずっと『三国志』です。
実は、『三国志』が世界中で有名になったのは、14世紀に羅漢中という人が執筆した小説『三国演義』がきっかけです。
それまでも歴史を題材とした小説は全国的にありましたが、『三国演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』の4つは、中国四大奇書といって中国で最も有名な創作物語となりました。
その中でも『三国演義』は実在の歴史をテーマとした史実と虚構の混じった物語として最も完成度が高い作品とされています。
その理由としては、虚構を交えながらも史書を参考にしているために高い完成度と凄まじいボリュームを誇り、京劇の種本としてもそのまま使えるような内容であったからです。
こうした小説・講談は結果としてお偉いさんしか読めなかった歴史書を広く庶民にまで広く分布させることとなりました。
日本でも『三国志』の流通は古くからありましたが、庶民が読めたのは比較的平易な分で書かれた『三国演義』の方でした。
なので、つい近年まで『三国志』と言えばこの物語の方を指していたのです。
『三国志』という呼称はその名残なのです。
『キングダム』は春秋戦国時代のどの辺りの話なの?
『キングダム』の時代は具体的に春秋戦国時代のどの辺りにあたるのでしょうか?
ズバリ、秦王贏政が天下統一に向けて行動しだすのは最後のたった20年程度、本当にクライマックスの数十年の話なのです。
『キングダム』の物語は、平凡な少年・信が秦王贏政と知り合い秦軍に加わるところから始まりますが、実は贏政が天下統一に乗り出すまでに、秦は既に諸侯の中から一歩抜きんでようとしていました。
繁栄の祖は彼の高祖父・恵文王(けいぶんおう)が王を名乗り始めた時から始まります。
彼が亡くなると、贏政の曾祖父である昭襄王(しょうじょうおう)の時代となります。
昭襄王は早世した兄に代わって若いうちからガンガン他国に攻撃を仕掛けます。
その結果、彼の時代に秦は今の四川省にあたる蜀の地を獲得し、楚の都を遥か東に後退させることにも成功しました。
その裏には優れた宰相や将軍の活躍もありましたが、ともかく彼の時代の快進撃のおかげで、辺境の一国に過ぎなかった秦はあっという間に大勢力へとのし上がるのです。
また、彼は当時としてはなかなかの長寿で、子や孫が大勢いました。
隠居という考えがなかったので、彼は一度即位して以来死ぬまで君主であり続けました。
贏政が生まれたのは、そんな曾祖父が41年の王生活を終えて亡くなる年でした。
続く祖父の時代は僅か3日で終わりました。
跡を継いだ父は曾祖父が築いた繁栄をそのまま引き継いでついに主君であるはずの周王朝を滅ぼしてしまいました(国土を奪われただけで王族はそのまま末代まで生きている)。
しかし、その父も3年で急死してしまいます。
すると、その嫡男であった彼が急遽王として即位させられるのです。
『キングダム』の時代は、既に抜きんでていた秦がいよいよ天下統一に向けて乗り出そうとしていた時代なのです。
あとがき
いかがでしたでしょうか?
中国の歴史はと~~~っても長く、国がいくつもあるので複雑ですよね?
これら全てを網羅するのは一般の人にはとても無理な話です(泣)
でも、現代の我々は本やゲームで少しずつでも親しみを持って勉強できるから、勉強の自由すらなかった古代の人々と比べたら本当に恵まれているのかもしれませんね?
時代背景を理解すると、「この登場人物はこの時にこんな気持ちで行動していたのか!」「物語ではこういう描かれ方をされているけど、実際の歴史ではどういう結末を辿っているのだろう?」という疑問と、自分なりの考えを持つことができます。
それはそれで、また違った視点で漫画を楽しむことができますよね。
今回の記事が皆さんがより歴史を深く理解するための手助けとなれば、著者としてこれほどうれしいことはありません。
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