上杉鷹山の改革を簡単に解説!『為せば成る』の名言の本当の意味は?
上杉鷹山(ようざん)は江戸時代中期の大名です。
米沢上杉藩の九代目藩主で当時破綻寸前だった米沢藩の財政を立て直し、見事に再興させた名君として知られています。
では、上杉鷹山はどうやって藩の財政を立て直したのでしょうか?
今回は上杉鷹山の改革について分りやすく解説します。
その考え方や方法、取り組む姿勢は現代の私たちにも学ぶべきところがあるので参考にしてください。
上杉鷹山の名言
あなたは「為せば成る」という言葉を聞いたことがありませんか?
実はこれ、上杉鷹山が語った名言です。
「為せば成る」=「やればできる」
という意味ですが、実はこの言葉には続きがあります。
正式には、
「為(な)せば成(な)る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」
(何事もやればできる もしできないことがあるのなら それはやろうとしていないだけだ)
という意味になります。
「為せば成る」という部分だけ使われる事が多く、本当の意味を知らない人が意外と多いそうですが、鷹山はこの言葉の通りに改革を実行していきます。
鷹山が藩主になった米沢藩(上杉家)の状況
上杉謙信の教えが生きる上杉家は、謙信の養子となった上杉景勝の時代に関ヶ原の合戦で西軍についたことから、会津120万石から米沢30万石へと減封となります。
これは上杉家の収入が今までの4分の1になることを示しているので、当然家臣のリストラをしないと領国経営を維持できません。
しかし、義を重んじる上杉景勝は家臣のリストラをすることなく、家臣団とそのまま米沢の地に移ります。
家臣たちも義に厚く、武門の誉れの高い上杉家に仕えていることを誇りに思い、減俸になっても上杉家を見限ることはありませんでした。
しかし、収入が4分の1になっても家臣の数が変わらないということで、上杉家では人件費を捻出するために借金を重ね、時が経つと、その借金が莫大な額になっていました。
上杉鷹山が藩主になる前には、藩の財政が回らなくなり徳川幕府に領地の返上(今でいう破産宣告)をしようという話もあったそうです。
上杉鷹山が行った改革
しかし、鷹山が9代目の藩主となると財政再建のための改革を行っていきます。
一時は120万石の大国であり、上杉謙信という稀代の武将の流れを汲む家柄としてのプライドが贅沢な暮らしにつながっていると考えた鷹山。
まず最初に徹底的な質素・倹約を行い、家中の意識改革をします。
それも藩主である鷹山自らが率先して食事は一汁一菜、着物は絹から綿に変え、女中の人数も50人から9人に減らします。
女中が多いと、どうしても着物や趣向品にお金が掛かってしまうものです。
これは当たり前のことですが、分かっていながらも今までの藩主は贅沢を改める事ができませんでした。
しかし、鷹山は「やる」と決めたら徹底的に倹約を実行していきます。
その他にも鷹山は1500両だった江戸での生活費を200両にまで削ったとも言われています。
そして、田畑の開発に力を入れ、新しい産業を生み出すなど、収入を増やすこともしっかりと行っていきます。
その結果、大飢饉の際に餓死していく領民に対して救済のためにお米を出すことができないほど空っぽだった藩の米倉が、10年後には米で一杯になります。
老婆の手紙と足袋
上杉鷹山に関するこんな逸話があります。
ある時、老婆が稲束の取り入れをしていて人手が足りなくて困っていたそうです。
そこに侍2人が通りかかったので手伝ってもらい、そのお礼にお餅を持って伺いたい(当時は取り入れのお礼にお餅を配る習慣があったそうです)と伝えたところ、米沢城の兵士に伝えておくという返事でした。
老婆がお餅を持って米沢城に行き、門番にその事を告げると通された先にいたのは上杉鷹山本人だったそうです。
なんと、鷹山は自分の身分を明かさずに稲束の取り入れを手伝っていたのです。
さらに、鷹山はこの老婆に銀五枚を与え、この老婆は鷹山からの恩を忘れないために家族や孫たちに足袋を買って送ったそうです。
この老婆も鷹山からもらったお金で足袋を買い、その恩を忘れないようにと家族に送るという、何とも日本人の美徳を表した話ですね。
そして驚くことに、この出来事を伝える手紙と足袋が現存しています。
こんな話は時代劇の中で創作として聞いたことはありますが、実際のお殿様が農民の手伝いをしていたなんて、正直驚きでした。
これが、上杉鷹山が領民から愛され今に語り継がれる理由なのでしょう。
画像引用:wikipedia
こういった逸話を見ると上杉鷹山という人物がいかに優れた君主であったかということがよく分かります。
今の私たちが鷹山から学ぶべきことがたくさんあるのではないでしょうか?
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