【朝倉義景】戦の駆け引きは失敗ばかり!そんな義景が残した意外な功績とは?
私もそうですが日本人は決断力に欠ける国民だと言われることがあります。
例えば日本がサッカーなどでなかなか勝てない中で原因の一つに「決断力不足」というものが挙げられたりします。
サッカーに限った話ではありませんが、決断力が不足していて良いことは1つもありません。
筆者もレストランのメニューをなかなか決められずに友人をイライラさせてしまいます。
そういう意味で今からご紹介する朝倉義景という人物は非常に日本人らしい武将と言える人物です。
歴史に名を残す戦国武将は決断力に富む人物が多いので、朝倉義景をみていると、やはり昔の人も私と同じ日本人だったんだなぁとホッとしてしまいますw
合理主義の父&一向一揆を絶対に倒す爺ちゃんに育てられる
朝倉義景は天分2年(1533年)9月24日に越前(福井県)の戦国大名朝倉孝景の長男として生まれます。
義景は孝景が40歳の頃の子供で唯一の実子だったともいわれています。
この朝倉家は当時将軍とも同格とまで言われた斯波家の重臣の家系。
つまり超エリートの名門家系でした。
しかし、義景の父、朝倉孝景は名門としては珍しく非常に合理主義的な性格でした。
その考え方の一つ「朝倉孝景条々」にも載ってる格言をご紹介しておくと、
「名作之刀さのみ被好間敷候,其故は万疋之太刀を持たり共百筋之鑓には勝間敷候,万疋を以て百筋之鑓を求百人為持候は一方は可防候」
「(訳)高い金で名刀を一本買うくらいなら部下100人に安くていいから武器を買い揃えてやれ」
「朝倉家に於ては宿老を定むべからず。その身の器用忠節によりて申し付くべき事」
「(訳)世襲制度じゃなく実力主義で人事採用するべきだ。」
といった、非常に戦国大名として合理的な考えを持っていることが分かります。
他にも京の文化を積極的に取り入れつつ、基本的に質素倹約に務めることなど、現在にも通じるような訓戒を残して朝倉家を戦国大名化することに成功しています。
見栄を張ってものを買ってしまうことの多い私には身につまされるような言葉です……。
その孝景が天文17年(1548年)に他界。
そのあとを息子の義景が継ぐことになるのですが、従曾祖父にあたる朝倉宗滴が健在だったので、彼が亡くなる天文24年(1555年)までは政務・軍事をほぼ一任していました。
朝倉宗滴は越前のにある加賀(石川県)の一向一揆との戦いに生涯を燃やした名将。
もしかすると、「一向一揆って百姓一揆なのに、それを鎮圧するのがそんなに凄いの?」と思われる方がいるかもしれませんが、死ねば極楽に行けると思っている信徒の力は強大。
百姓一揆のマンパワーと不退転の決意には、上杉謙信や織田信長でさえ苦戦しているので、並みの労力では済まなかったことが分かります。
しかも、朝倉宗滴は亡くなる直前の天文24年(1555年)の7月にも加賀の一向一揆討伐に出陣。
驚くことにこの戦いで3つの城を奪っています。
宗滴が亡くなるのが同年の9月8日で享年79ですからとんでもないおじいちゃん。
まさしく一向一揆との戦いに生涯を捧げた武将と呼んで過言はないことでしょう。
お祭りで浪費して上洛のチャンスを逃がす?
さて、先ほど少々触れましたが朝倉義景は天文17年(1548年)に家督を継いだとは言え、ホントの意味で家督を継いだと言えるのは、そらく朝倉宗滴がなくなった天文24年(1555年)からです。
家督を継いだ彼がまず最初に行ったのが大規模な祭りやパレードでした。
この祭りは朝倉孝景、そして評価の高かった朝倉宗滴が亡くなったことからくる不安の声を払拭する意図があったと思われます。
そのため、当時から「第二の京」とも呼ばれていた一乗谷はなお一層盛大に賑わい、朝倉家の権勢をアピールするものとなりました。
しかし、それと同時に朝倉義景のいわゆる浪費グセを加速させる出来事であり、この祭りに端を発して彼はますます豪奢な生活に走ることになります。
孝景の家訓とは一体……。
転機が訪れたのは永禄8年(1565年)。
この年に時の将軍足利義輝が京で三好義継や松永久秀に暗殺されるという事件が起こります。
それに伴い、奈良に幽閉されていた義輝の弟、足利義昭が朝倉義景のもとにやってきます。
足利義昭は朝倉義景に対し再三再四上洛するよう要求しますが義景は加賀の一向一揆の鎮圧や息子の急死などを理由になかなか上洛しようとしません。
しびれを切らした義昭は3年後の永禄11年(1568年)に配下の細川藤孝や当時朝倉家家臣だった明智光秀の説得もあって、織田信長のもとに行ってしまいます。
こうして義景は上洛するという千載一遇のチャンスを逃してしまいます。
信長との決戦、その時本日の主役は…!?(何もしない)
織田信長の後ろ盾により、足利義昭は念願の征夷大将軍に就任します。
それに伴って信長は朝倉義景に対して義昭の名前で、上洛して将軍に挨拶をするようにという趣旨の内容の書状を2度送ります。
しかし義景はこれを無視。
これは信長に対して服従するのが嫌だというのもありますが、長期間領内を留守にするのが不安だったというのもあるようです。
心配性すぎるでしょう……。
これに対し織田信長は永禄13年(1570年)4月20日、義景に叛意ありとして徳川家康とともに越前出兵を行い、朝倉家支城の金ケ崎城などを攻め落とします。
しかしこの時、よく知られる浅井長政の裏切りが起きて信長は朽木峠を越える琵琶湖を反時計回りに一周するようなルートで京都に撤退することになります。
さて、京都に戻って信長はすぐにこの件に関する報復を行うことにし、なんとこの敗北からたった2ヶ月の永禄13年(1570年)6月28日にまたしても徳川家康の援軍を引き連れて浅井・朝倉連合軍と姉川で対峙します。
決して負けられない朝倉家の命運をかけるといっても良いこの決戦の朝倉家の総大将はもちろん朝倉義景……!!
……ではなく朝倉景健という朝倉家一門の武将でした。
義景はこの度も合戦には出陣しなかったのです。
結局戦いは織田・徳川方が勝利し、浅井家の支城を大量に失い、朝倉家も真柄直隆などの優秀な武将を失うという結果で終わります。
甲斐の虎、武田信玄と信長を挟撃するチャンス!その時義景は…!?(何もしない)
1572年10月甲斐国の武田信玄は信長の比叡山焼き討ち、また足利義昭の信長包囲網への参加に促される形で西上作戦を開始。
12月22日には、徳川方の多くの城を奪い、三方ヶ原の戦いにて徳川家康との決戦にも勝利します。
三河の家康を破れば次は尾張の信長・・。
この時ばかりは信長もピンチに追い込まれます。
少し時系列はさかのぼりますが、これに先立って武田信玄は同じ信長包囲網の仲間である朝倉義景に対して書状を送っており、
「俺、東から信長攻めるからその間にお前は越前から攻めて挟み撃ちにしようぜ」
というような書状を送っていました。
これに朝倉義景も応じて出兵、浅井勢と一緒に虎御前山砦の羽柴隊と戦っていたのですがなんと12月3日には部下の疲労や積雪とかを理由にして本国越前に引き返してしまいます。
なんとも理解に苦しむ行動ですが武田信玄もやはり納得ができなかったようで後に伊能文書と呼ばれる、義景を強烈にディスる手紙を送っています。
以下がその内容の抜粋ですが
「又如巷説者、御手之衆過半帰国之由驚入候(中略)雖然、此節信長滅亡時刻到來候処、唯今寛宥之御備労而無功候歟、不可過御分別候」
「【意訳】聞いたんやけどお前本国に帰国したってマジ?(中略)そのようなご寛大な心構え(笑)で織田信長倒せるとか思ってんの?wもうちょい考えたほうがえええよ?」
という内容で再度の出兵を求めるというものでした。
しかし義景は結局出陣をせず、武田信玄は陣没して甲斐国へ撤退してしまいます。
こうして朝倉義景はまたしても信長を決定的に倒す千載一遇のチャンスを逃してしまいます。
信長を倒すチャンスはいくつか来てるし運は持ってるんだけどなぁ…。
一乗谷城の陥落
そんな朝倉義景の最期の時が訪れるのは、それから8ヶ月後のことでした。
事の発端は天正元年(1573年)8月8日、信長が3万の軍勢を率いて近江に侵攻したのが始まりでした。
これに対し、義景も出陣しようとしますが、数々の失態から家臣の信頼を失っていたので、出陣命令に従わない武将が多くいました。
重臣の朝倉景鏡、魚住景固からは疲れているので出陣できないという雑な言い訳で出陣を拒否されてしまいます。
それでも義景は出陣。
2万の兵を率いての戦いでしたが、勝ち目がない戦いだとわかったのか途中で撤退。
信長の追撃を受けて山崎吉家や客将の斎藤龍興などの武将が討ち死にします。
信長はその勢いのまま越前に攻め入り一乗谷城を攻撃。
朝倉義景は一乗谷城を捨てて逃亡するも、部下の裏切りもあって賢松寺で自刃。
享年41歳でした。
その頭蓋骨は後に小谷城の戦いで敗れた浅井久政、長政親子の髑髏とともに泊だみを施されて保存されたと言われています。
(盃にして酒を飲んだとか飲ませたというのは後年の創作。信長は下戸です)
辞世の句は
「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」
「(訳)全ては自分の行動の結果によるものだ。そうであると考えればどうして残念だと思うことがあろうか」
というもの。
義景さん、確かにそりゃそうだけど、これは何事も一生懸命やった人のセリフでは・・・
朝倉義景の総評
こうして見ると、朝倉義景はやはり戦国武将として決断力にかけた武将であったというのが感想として出てきます。
ただ、それは決して暗君であったということとイコールではありません。
朝倉義景は確かに戦の決断においては難があったものの、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道などに通じた文化人であったようで、当時の越前は北陸の小京都だとかあるいはそこを訪れた人は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と述べたそうです。
宣教師ルイス・フロイスも「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と述べています。
越前朝倉氏の最後の当主となってしまった義景ですが、もし戦国の世などではなくもっと平和な世の中においてであれば領内をよく治めた名君として讃えられたのかもしれません。
そのような総評でこの人物についての話を終えたいと思います。
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