【古田織部】へうげもの主人公の生涯と謎の最期を遂げた理由!
私の好きな番組の中に「開運!なんでも鑑定団」という番組があるのですが、その中によく登場する鑑定品が織部焼という焼き物です。
織部焼は本物だと〇〇千万とという値段がつくものばかり。
お金でその品物の芸術的価値の全てを表すことができませんが、それでも織部焼が高い評価を受けているのは間違いありません。
織部焼きが作られ始めたのは戦国時代後半から江戸初期。
創始者はその名前のもとにもなっている古田織部助重然、通称古田織部と言われる人物です。
歴史漫画「へうげもの」の主人公としてよく知ってる方も多いのではないでしょうか?

戦国時代の茶器といえば千利休の広めたわびとさびを重んじる流行からどちらかといえばおとなしめな、少し地味なデザインのものが多い時代でした。
そかし、それに反して織部焼はなかなか時代に先駆けたデザインが多いのが特徴です。
織部のつくる茶器は幾何学模様を取り入れたユニークなデザイン。
当時、南蛮貿易によってもたらされた焼き方の技術を用いた緑色の陶器などを取り入れた非常にファッショナブルなデザインでした。
その一方で織部は千利休の弟子でもあり、利休の7人の高弟、後に利休七哲と呼ばれることになる高弟の一人でもありました。
ではわびさびの専門家利休の弟子である織部が何故織部焼きを生み出したのか?
今日は織部の人生を振り返りながら抽象的ながら非常に魅力的な茶器の世界を垣間見てみたいと思います
信長の家臣だった頃の古田織部
古田織部は1543年、美濃に生まれます。
当初は父、古田勘阿弥の兄、つまり伯父さんの古田重安という人物の養子兼家臣となります。
この伯父さんの古田重安という人物は美濃山口城の城主。
そのため、そこそこ身分の高い武士だったことが推察できます。
また、織部の実の父・勘阿弥は茶道の達人と呼ばれるほどの茶人だったようですが、織部自身は実は当初は茶の湯が大嫌いであったという記録も残っています。
身内に茶人がいるのに当初は茶道が大嫌いだったというのもなかなか面白い話ですが、本当に人生とは分からないもの。
この頃の織部は、後に自分が茶湯にハマってしまうとは夢にも思っていなかったでしょうね。
1567年、織田信長が美濃を制圧したあと古田家は信長に仕えます。
さらにその2年後には中川清秀という武将の娘と結婚。
その後も戦いでは雑用ながらも重要な仕事をこなしていきます。
1578年7月、織田信忠の播磨神谷城攻めに使番として手柄を立てたり、また荒木村重が謀反を起こした際は村重の家臣だった清秀を説得して信長に帰参させたりしています。
戦場での槍働きと比べると派手さはありませんが、重要度でいえば侍大将より難しい仕事をこなしていますね。
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織部は武将としても活躍したの?
1583年に義理の兄である中川清秀が賤ヶ岳の戦いで討ち死にすると、織部はまだ幼さなかった清秀の15歳の息子・秀政の後見役を引き受けています。
この後、織部は秀政とともに小牧・長久手の戦いや紀州征伐、四国平定、九州征伐、小田原征伐など秀吉の天下統一戦争のほぼすべて参加していきます。
天下の茶人として知られることになる織部とは言えもちろん本職は武士。
趣味にかまけて本業をおろそかにしない文武両道な一面を見ることができますね。
では、織部はいつごろ茶道に関心を持つようになったのでしょうか?
当初はお茶が嫌いだったという織部。
実は最初に織部がお茶に関係していると考える記録が残っているのが1582年のことです。
この年に利休から織部に手紙が送られた形跡があり、この時は既に織部は利休に弟子入りをしていたものと考えられます。
この頃の織部の年齢は40歳近く。
また「茶道四祖伝書」という記録では、「中川清秀にそそのかされて数寄者となった」とも述べています。
織部が清秀の妹、仙と結婚したのが1569年なので、おそらく1569年から1582年の13年の間に何か織部にとってお茶に目覚めさせる出来事があって利休に弟子入りしたと考えられます。
お茶嫌いな織部に何があったのか?
この部分はハッキリとは分かっておらず、新たな発見に期待したいところ。
ただ、個人的には、何だかんだいっても父親の影響が大きかったのではないかと思います。
子供は無意識のうちに親の影響を受けるもの、俳優の息子が俳優になったり、ミュージシャンの子供が音楽家になるのと同じような感じではないでしょうか?
千利休の弟子(利休七哲)として頭角を現す
茶人としての織部の行動力もなかなかすごいものでした。
織部の師匠である利休が弟子たちの前で、「そういえば瀬戸の唐橋のぎぼしに良いデザインのものが二つあったんよね(意訳)」と言う話をすると織部は即座にその場から馬を飛ばして瀬戸の唐橋にまで見に行ったそうです。
なんという行動力の化身……。
このように多忙な武将としての生活を送りつつ、利休から多くの刺激を受けて茶人として成長していく織部。
しかし、小田原征伐が終わった後の1591年にある大きな出来事が起きます。
なんと織部の師匠でもある千利休と秀吉が仲違い。
利休は秀吉の命令で切腹をすることになってしまったのです。
利休が切腹する少し前に追放された時、それまで利休をしたっていた多くの武将が秀吉の目を怖がって見送りに来ませんでした。
ただ、その中でも古田織部と細川忠興だけが利休を見送りに来たそうです。
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こうした逸話からも、織部が義理人情に厚い武将(茶人)だったことが分かります。
この利休の切腹が織部に非常に大きなショックを与えたことは想像に固くないことですが、この出来事は織部が茶人として大成する非常に大きなきっかけとなったのでした。
わびさびを重んじる利休と織部の先進的な茶器
千利休という人物は「わび」「さび」という比較的静かで厳粛な精神を持っている一方で、一風変わったものを好むという価値観がありました。
ある種のクリエイター気質だったと言えるかもしれません。
例えば、細川忠興に対して「ゆがみ」という名前の、わざと歪ませた茶杓(抹茶をすくうスプーン)を送ったりしています。
これは基本に忠実な忠興に対して、これくらいの遊び心は持ってもいいのだと伝えたかったと言われます。
織部の独特の感性も見抜いていた利休は織部に対して「あなたは人と違うことをしなさい」と教えます。
織部はその言葉を実践しこれまでに全くなかった茶の湯の形を模索し、自分の故郷の美濃に釜を設けて焼き物を始めます。
その特徴としてはいびつな形、またそれまでになかった派手なデザイン、そして交趾焼(華南三彩)と呼ばれる綺麗な緑色を取り入れた鮮やかな色合いを取り入れてることなどが特徴に挙げられます。
これまでの利休好みが「静」であれば織部の作った織部好みのものは「動」と言えるかもしれません。
後にその織部焼きを見せられた博多の豪商の神谷宗湛は、「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と驚き、また近世の加藤唐九郎という人物も、「利休が自然に美を見出した人であれば織部は美を作り出した人だ」と評するなど、茶の湯だけでなく芸術的なセンスから見ても非常に秀でた人であったということがわかります。
豊臣家に内通?切腹による謎の最期!
茶の湯を通じて調停、貴族、寺社、経済界につながりを持ち、また二代将軍茶の湯指南役に選ばれるなどまさしく茶道筆頭としての権勢を思うがままにする織部。
このようにして芸術、また茶の湯の道で大成した織部の最期は唐突に訪れます。
1615年、大阪の夏の陣の真っ只中に織部の重臣、木村宗喜が豊臣家と内通した疑いで京都所司代に捕らえられて、後に処刑されてしまうのです。
嫌疑の責任に連座して古田織部自身も徳川方に捕まるのですが、この時、織部は徳川方の疑いに対して一切反論せずに切腹をしたと言われます。
まるでそれは亡き師匠、千利休を彷彿とさせる潔い最期でした。
なぜこの時反論しなかったのか?
その理由はよくわかっていません。
聞いてもらえないと判断したのか、それとも本当に内通してたので反論出来なかったのか……。
何はともあれ織部焼きという一つの社会現象を巻き起こした古田織部は73年の生涯を閉じます。
一方、織部が亡くなったあとも一世を風靡し続けた織部焼きは寛永年間に青磁が流行するまで茶器の主流となるのでした。
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