軍師官兵衛に登場し、その存在感を見せつけた吉川元春。

実はこの吉川元春は現代で活躍するミュージシャン・吉川晃司さんのご先祖になります。

吉川元春は言わずと知れた毛利元就の次男。

つまり、吉川晃司さんは毛利元就の子孫という事になります。

そして今回は、この吉川元春についてのお話です。

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負けなしの武将だった吉川元春

76戦64勝12分け、これが無敗を誇ると言われる吉川元春の生涯戦績です。

KikkawaMotoharu

元春は父親の毛利元就に戦の事は元春に聞けと言わしめるほどの戦上手でした。

そんな吉川元春の名将ぶりが発揮されたのが鳥取城の戦いです。

織田信長の播磨・中国攻めで最も悲惨だったと言われる「鳥取城の戦い」。

この戦では羽柴秀吉の軍師となった黒田官兵衛の立てた兵糧攻めという作戦が的中し、わずか4ヶ月で鳥取城は開城します。

吉川経家の入城

鳥取城の城主は山名豊国という人物で毛利に属していました。

豊国の篭る鳥取城は羽柴秀吉の攻撃を受けて降伏しますが、織田信長につくことを良しとしなかった家臣達は城主である豊国を追放し、毛利に代わりの城主を要請します。

家臣に追放される城主ってどれだけ人望がないのかという話ですね(笑)。

そこで吉川元春が派遣したのが同じ一族(元春は養子なので血縁関係はなし)で武勇の誉れが高かった吉川経家です。

織田と毛利の最前線の城の城主となった経家は死を覚悟しての入城だったようで、このとき自分の首桶を持って鳥取城に入っています。

こういった逸話が今も経家が人々から慕われる理由でしょうね。

羽柴秀吉軍の兵糧攻めに苦戦する

吉川経家は鳥取城に入って蓄えてある兵糧米の少なさに驚きます。

一度、秀吉に攻められた際に消費して以降、補給していなかったのか20日分くらいの蓄えしかなかったと言います。

そこで、大急ぎで城下にある米を買いに行かせますが、城下にも米の蓄えがなく、最悪の状態で秀吉軍を迎える事になります。

これは、黒田官兵衛の策で秀吉が前もって相場の倍の値で米を買い上げていたためだと言われていて、城兵の中には金に目がくらんで兵糧米を売ってしまったものもいたそうです。

そして鳥取に入った秀吉軍は城下の家を焼き払い、領民が鳥取城に逃げ込むように追い立てます。

多くの領民が城内に入ったことで、ただでさえ少ない兵糧がさらに消費され、兵糧補給も失敗したため、数ヵ月後には城内の兵糧が尽きたとされています。

食べるものがなくなった城兵や領民は牛や馬、蛇や蛙、草や木の根を食べ、最後には戦死した死体の肉を食べるなど、壮絶な状況だったと言います。

毛利からの援軍も現れず、篭城から4ヶ月、経家は降伏開城することを決意します。

経家の遺書と最後

経家は自分の命と引き換えに城兵を助ける事を条件に降伏します。

最初、秀吉は経家は臨時の城主なので、山名豊国の家臣が切腹すればそれで良いと伝えますが、経家は一時とはいえ大将となった自分が責任を取ると言って自害したと伝わります。

経家が子供たちに書き残した遺書を意訳するとこのようになります。

「鳥取城では昼夜200日耐え忍んだが食料がなくなってしまった。自分一人の命と引換えに、多くの城兵の命を救うことで吉川家の名を上げる事ができ、幸せに思う。」

この他にも吉川元春の三男 広家に宛てた遺書にも、「毛利と織田の弓矢の境目で切腹できるとは末代までの名誉」と書き残しています。

こういった遺書から吉川経家は戦国武将の中でも誇り高く、高潔な人格をもった武将だったことがうかがえます。

鳥取城は毛利の援軍が間に合わず城内の兵糧が尽きてしまったため、吉川経家の切腹で城兵を助けるという条件で降伏開城しました。

完全に羽柴秀吉や黒田官兵衛に遅れをとった毛利軍ですが、鳥取城が開城したその日に吉川元春が援軍として鳥取に到着しました。

鳥取城が落城した日に吉川元春が到着

鳥取城が落城した日。

吉川元春は鳥取城近くの馬の山という場所まで進軍していて、鳥取城への兵糧補給を遮っていた織田方の羽衣石城(うえしじょう)には吉川元春の長男元長が向かっていました。

そして本隊の毛利輝元も島根の月山富田城まで来ていました。

しかし、馬の山で鳥取城落城の知らせを聞いた元春は単独の6千の兵で、3万の羽柴秀吉軍(諸説あり)を迎え撃たなければならなくなります。

戦上手で知られ、負けを知らない元春でしたがこの兵力差と状況はあまりにも不利でした。

さらに秀吉軍が御冠山という元春の陣を見下ろせる場所に着陣したのでさらに劣勢に立たされます。

吉川元春が背水の陣を敷いた「橋を引きたる陣構え」

この状況の中で元春は背後の川に架かっていた橋を壊させ、自ら唯一の退路を断ちます。

これが後に囲碁の世界などで「吉川が橋を引きたる陣構え」と言われるもので、背水の陣を敷き、悪条件の中でも秀吉軍と決死の覚悟で戦う事を表したものです。

兵法にも「死を覚悟した兵は手強いので、あえて退路を残しておくべき」と言うものがありますが、元春が自ら退路を断ったため、秀吉軍は迂闊に手を出せません。

さらに元春は土塁を築いて堀を堀り、防備を厳重に固めたため、秀吉と官兵衛は元春と戦う事を避け、周囲の織田方の武将にも吉川軍と戦わないように伝え姫路に引き上げたと言われています。

この時は兵法を心得ていた吉川元春と羽柴秀吉の軍師、黒田官兵衛との間に、見えない高レベルな心理戦があったのかもしれませんね。

この吉川元春の「吉川が橋を引きたる陣構え」によって元春の名声はさらに高まり、秀吉や官兵衛も吉川元春という武将の器の大きさを知る事となったのかもしれません。

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