毛利元就の居城・吉田郡山城の麓にある、安芸高田市歴史民俗博物館で開催されていた毛利隆元展に行きました。
これは毛利隆元没後450年を記念しての特別展で、普段は見ることができない隆元の自画像や手紙を見ることができました。
そこで今回は、毛利隆元がどういう武将だったのか、残された手紙などから彼の性格に迫ってみたいと思います。
毛利隆元の評価が低いのはなぜ?
毛利隆元は父親である毛利元就と、吉川元春、小早川隆景といった優秀な弟たちの陰に隠れて、世間ではあまり評価が高くはありません。
ただ、隆元は派手さはなくとも、堅実に仕事をこなしていて決して凡将ではありません。
特に内政に関しては、父親や弟達にも勝るとも劣らない能力を持っていたのではないかと、近年、再評価されてきています。
私も、毛利家にとって隆元の存在はとても大きかったのではないかと思っています。
ではなぜ、あまり評価が高くないのか?
41歳という若さで父親や弟達より先に亡くなった事も影響していると思われますが、一番は隆元が残した手紙の文面にあると思います。
隆元が残した超ネガティブな手紙
今回の展示で何点か手紙がありましたが、優秀な父親と弟の間で劣等感を感じずにはいられない、隆元の苦悩が分かります。
何点か展示してあった手紙から、いくつか抜き出して簡単に訳してみます。
- 養子に出た弟達(元春・隆景)が、吉田に戻ってきても、自分たちの家のことばかりですぐに居城に帰りたがる。
- 私をのけ者にして、2人(元春・隆景)だけで仲良く話をしている。
- 相談事があっても当主の私ではなく元就に直接相談するので、自分が見限られているようで腹が立つ。
- 自分から歩み寄っても避けられる。
- 自分は無才、無器量なので毛利は自分の代で終わるだろう。
- 元就は名将であるが、名将の下には必ず不幸な子が生まれる。それが私だ。
と、ネガティブな言葉のオンパレードです。
戦国武将というのは、現代の私たちとは考え方も価値観も違うというイメージがありました。
しかし、隆元の書状には私たちが抱える悩みと同じような事が書かれています。
戦国時代を生きていた人たちも、嫉妬や妬み、劣等感という普遍的な悩みを持っていたんだなと思うと、とても身近に感じられました。
文末には、この手紙は読んだら燃やしてほしいと書いてあるものもあるので、まさか、隆元も400年以上経った現在も手紙が残っていて、多くの人に公開されるとは思ってもみなかったでしょうね。
毛利隆元暗殺の謎!死因は何?
毛利隆元は41歳という若さで亡くなります。
死因は不明で、毛利元就が攻める月山富田城に援軍として向かっている途中で急死したので、「尼子の刺客に暗殺されたのではないか?」といわれています。
佐々部という場所で和智誠春(わちさねはる)の接待を受けた後、そのまま亡くなっているので、個人的には毒を盛られたのではないかと思います。
ただの食中毒の可能性もありますが、隆元の遺体がすぐに火葬されたことを考えても暗殺の線が強いのではないかと思います。
隆元の死によって若い輝元が家督を継ぐことになります。
元就のバックアップがあったとはいえ、輝元は当主になるには未熟すぎました。
もし隆元が生きていれば毛利家は織田信長とも対等に戦えていたのかもしれません。
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毛利家の精神的支柱
隆元は実績で目立つというよりは、毛利家家中の精神的支柱としての役割が大きく、決して父親や弟に引けをとっていたとは思いません。
ただ、周りと自分を比較してし自己卑下してしまう癖をつけてしまったために、自信を持つことができなかったのでしょう。
隆元の死を知った元就は狼狽し、極度に元気がなくなったといいます。
そして、隆元が亡くなったことにより、毛利家で内政面の問題が頻繁に起こり、小早川隆景が改めて、隆元の存在を痛感したと言われています。
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